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管理人の日記 - 2012年9月の記事 / やり込みinFF

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管理人の日記ログ
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 ふう・・・頑張ってプレイ日誌書きます。

(2012年9月29日)

登録タグ/ 明日から本気出す
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 公務員試験も筆記が無事に終わったということで、久々にFF12の「たたかう禁止 低レベルクリアー」をプレイしています!
 ・・・そんなわけで、今は召喚獣の「カオス」と戦っています。とりあえず、敵の大技である「エアロジャ」を受ければ一発全滅が確定してしまうため、まずはこれを何とかしなければなりません。
 ――まあ、HPを2倍にする「バブル」を使えば勝てることは分かっているのですが、それは百も承知でつまらないということで、しばらくは「バブル」なしで頑張ってみたいと思います! では!!

(2012年9月29日)

登録タグ/ 明日から本気出す
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 とても嬉しいニュースである。PSPで発売予定とされていた「ゴッドイーター2」が、Vitaにも対応することが発表されたのだ!!
 ・・・それはもちろん、「PSP版の開発が中止された」というわけではなく、「PSPに加えてVitaでも発売されることが決定した」という意味であるため、持っているほうの本体を使ってプレイできるし、当然Vitaならば今までより遙かに美しいグラフィックで楽しむことができる。さらに、「PSP/Vitaで同時発売」「セーブデーター引継ぎ可能」「PSPとVitaが混ざってもマルチプレイができる」などと、至れり尽くせりの仕様となっているのだ。
 ――やれ、「ゴッドイーター」とは、元々は「モンスターハンター」によく似た“狩りゲー”と呼ばれるアクションゲームであったが、その出来の良さから多くのファンを持つに至り、俺も友人の紹介で購入してとても楽しく遊ぶことができたものであった【2012/7/20】。そして、その続編の開発は早くから発表されていたのであるが・・・ちょうど今はハードの移行期であるし、そもそも「ゲーム」というもの自体が様々な要素により不安定となっている状況である。が、そんな環境下において、「PSP/Vitaでの同時発売」という素晴らしい発表してくれたことは、俺にとって更に「ゴッドイーター」への信頼を深めるに至ったのである。まったく、ここまでファンの望んだ発表をしてくれる作品が他にあるだろうか? 最近は、このようなサービス精神が足りていないゲームが多すぎる。娯楽なのだから、ユーザーに気に入られるのが一番に決まっているのに・・・。

 それはそうと、冒頭の発表が行われた背景には、現在がちょうど「東京ゲームショー」の最中ということがあるそうだ。
 ・・・やれ、「東京ゲームショー」と言えば、日本で毎年9月に行われるゲームの見本市であり、数年前までは「人気シリーズの最新作登場」「まったく新しい新シリーズ作品」「新ハードの公開」などとゲーム系ニュースが目白押しとなっていたが、現在ではただのスマートフォン向けビジネス商談会となって全く面白みが無くなってしまったのだが、それでも稀に今回のような発表が為されることがあるのだ。
 ――そして、俺にとって「ゴッドイーター」の他に気になるニュースは、Vita本体に関する情報である。というのも、現行のPS Vitaの黒・白のカラー以外にも、が発売されることが決定したという。俺は、前からゲーム機に関わらず携帯する機械は青で統一しようと決めているため、今回のように新ハードの青いカラーが発売されるというのは、非常に購入意欲を煽られるものである。やれ、世間では「白がいい」「黒がいい」「水玉模様がいい」「クマさん柄がいい」などと勝手なことが言われているが、俺は何と言っても青しか有り得ないということだ。勝負PSP!!

 ――と、いうわけで。楽しみにしていた「ゴッドイーター2」のVita対応が発表され、無事に青色本体の発売も決定されたことだし、俺はそろそろ本気でVitaを購入しようと考えはじめたのである。
 やれ、俺は兼ねてからPSPにはお世話になっていたため、その後継となるPS Vitaに対しても、前々から強い興味を抱いていた。ところが、今年3月のVitaに関する新作発表会が凄まじいまでに期待はずれであった【2012/3/10】ため、さすがの俺もガッカリしてしまっていた。が、その後にソフトラインナップも少しずつ増えていき、そして今回の「ゴッドイーター」とVita本体のカラーに関するニュースを受けて、俺は再びVitaを買ってみようかなあという気になってきたのである。というか買う。さあ、これであとは「タッグフォース」シリーズさえ出れば完璧なのであるが・・・。

(2012年9月29日)

登録タグ/ ゲーム一般
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「小さい字」とは読みづらいものである。だいたい、「文字」というものには、場所によって“必要とされるサイズ”が違うのであるが、それよりも極端に大きかったり小さかったりすると、結果として読み手に大きなストレスを与えてしまうことになる。例えば、この日記のような「長めの文章」の場合、必要とされるのは「目でスラスラと読めること」である。そのため、HTML標準と言える12ポイント程度の文字サイズや、ブログなどで主流の10ポイント文字を用いることが基本と言って良いだろう。「慣れている」という点はもちろんとして、単純なサイズとしても読みやすいものである。
 …が。それ以下のサイズとなると、使いどころが非常に難しく、はっきり言って
制作者の自己満足になってしまいがちである。まず、「デザイン面」で使う場合について考えてみよう。一部の個人サイトではトップページなどで過剰に文字を小さくしている場合があるが、アレは非常に読みづらくストレスを与えるものである。恐らく、制作者としては、極小の文字を使うことでオシャレに作っているつもりなのだろうが、ユーザーとしてはどこに何があるのか分からない、しかも文字が小さいとクリックしづらいという二重の障害が発生する。しかもそういうサイトに限って、項目名を英語にしていたりするからタチが悪い。「index」とか「diary」とかならまだしも、「discography」とか「materials」などと解釈の難しい単語だと、目的の項目を見つけること自体が大変である。さらに、今世紀初頭には、トップページを「入り口→メニュー」という二層構造にして「ENTER」というボタンを設置することが大流行したが、その手の「デザイン(笑)を重視したサイト」では、その「ENTER」ボタンが他の文字と見分けが付かないような小さなサイズ・同じ色で配置されていたりする。もはや、サイトに訪問させる気があるとすら思えない。もちろんユーザーとしては、入り口を明確に「探す」必要が出てくるため、ストレス以外の何も感じないというものである。まあ、そういう自己満足で読み手のことを考えていないサイトは、だいたい内容も推して知るべきという感じになっているのであるが…。
 ――そしてもちろん、このような「読み文字」として小さな文字を使っている場合もアウトである。一般的な“読み慣れているサイズ”よりも著しく小さいという時点で、読み手には違和感を与えてしまうものであり、さらに小さい文字を使う場合はスペースの問題で文字数を大量に押し込んでいるという場合も多いため、「読みづらさ」&「長さ」という二重の意味でユーザーにストレスを与えてしまうことになるのだ。そもそも、こういう小さい字が密集している時点で、大抵の人は興味を無くしてしまうことであろう。残念ながら、人は見た目でモノを判断するのだ…。


 
だが、重要なのは「適材適所」ということで、“大きすぎる文字”も御法度である。そもそも大きすぎる文字というのは乱用すると頭が悪く見えてしまうため、まったくもって鬱陶しいことこのうえないというものなのだ。
 …だいたい、こういう大きい文字が目に付くということは、それはつまるところ「大きい文字を使いすぎている」ということであり、学生時代に必ず居た“カラーペンでマークしすぎて逆に要点を読みづらくしている人”と同じで、結局は分かりづらくなってしまっているのである。
 ちなみに、PCのctrlキーを押しながらマウスのホイールを回すと、ブラウザによるが文字サイズを大きくしたり小さくしたりできるため、それを使って文章を読みやすくするという手もある。しかし、サイトは標準サイズで一番読みやすいのが当たり前であるため、そうでないホームページなど、大体その程度の出来なのであるが…。

 ちなみに、この「文字サイズ」というものは、スタイルシートを使えばどれだけでも大きくしたり小さくしたりすることができる。例えば、HTML単体ではが限界であるが、スタイルシートを使えば、こんなのや、こんなのもできるのである。あああああああああ



 ・・・・・・。
 と、いうわけで。結論としては、やはり文字サイズは、いつも使っているような適当な大きさが一番良いのである。
 ――それはまさに「適材適所」というもので、文字が大きすぎても小さすぎても駄目なのだ。普通のサイズが一番良い。
俺はこれくらいの大きさが好きだよ・・・。

(2012年9月29日)

登録タグ/ 文章制作の話 哲学
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 さあ、この16日(日)と17日(月・祝)は、いよいよ公務員試験だぞっ!
 前回の試験の時は、1日前に受験票を作ろうとして失敗した【2012/08/26】から、今回は2日前に印刷しておいたぞ! 今度こそ日付に間違いは無いぞ!!
 俺、この試験に受かったら働くんだ――就職が決まったら飲みに行こう、池袋にいい店を知ってるんだ――こんな公務員が居るかもしれないところに居られるか!私はもう帰る!!――なんだこいつら、本当にこれがあの公務員かよ、もろそうだぜ――ジャーンジャーン――こんなの足18だろ(笑)――勝ったッ!ニート生活完!!――やったかっ!?

 それはそうと、今日2012年9月14日は、当サイト:「やり込み in FF」の開設12周年の記念日でした!
 もはやこのサイトは俺にとってもう一つの人生なので、就職するなりニートになるなり、これからも末永く運営していこうと思います。
 どうぞ皆さまよろしくお願いします\(^o^)/

(2012年9月29日)

登録タグ/ 明日から本気出す
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 おぞましき事態である。この秋に、なんと登場人物が全員40代男性の恋愛シミュレーションゲームが登場するという。その名も、「制服の王子様」【公式サイト】。「王子様」と書いて「オジサマ」と読ませるところが中々ニクいが、この際そんなことはどうでもいい。なんといっても40代男子である。まったくもう、俺みたいな20代男性からしてみれば、何もかも新しすぎて言葉にできないという感じなのだ。
 ・・・まず、根本から考えてみよう。このゲームが狙っている層であろう「20代女性」から見た「40代男性」と言うと、せいぜい「父親よりは少し若い」という程度で、普通ならば恋愛対象にならない年齢である。が、前にも書いた通り、最近では「20代女子と40代男子の恋愛・結婚」というものが急増している【2012/8/6】。その理由は、「経済的に安定した相手を求める女性」と「若くて子供の産める女性と結婚したい」という20代女性&40代男性の需要・供給が見事に噛み合ってしまっているからである。そう考えてみると、このような「年の差婚」も、歪んでいるどころか、むしろ社会の歪みを積極的に正しているようにさえ思えてしまうのだ。
 ――そして何より、上に挙げたイメージイラストを見ていただきたい。俺は、一目見て(;^o^)「ああ、居るなあこんなオッサン・・・」と思ってしまったのである。現代では、こういう格好いいオジさんたちが、「若い頃の恋愛関係のすれ違い」や「職場で出会いが無かった」などの理由により、40代を過ぎるまでになっても結婚できないということが往々にして存在するのだ。だから俺は、リアル過ぎて嫌なのである。ゲームなのだから、赤とか青とかのピカピカの色に髪を染めていたり、薔薇の花にキスをしながら「ここは“黒薔薇の園(ブラック・ガーデン)”・・・」とかほざいたり、アゴがdj TAKAの代表曲みたいになってれば、むしろ俺は( ^o^)「今のスイーツ女子はこんなので洪水警報発令なのかよwwww」と笑い飛ばしてしまえていた。それが、いかにも有りそうなキャラ設定に、いかにもありそうな社会背景だから、まったく怖いと言うほか無いのである。

 では実際に、今回の話題であるゲーム:「制服の王子様」のキャラ設定について、具体的に考えていこう。詳しくは公式サイトに書いてあるが、上に掲載したイメージイラストで示すと、左から順に「アメリカ軍人(49)」「医者(53)」「父の元部下である会社員(56)」「警察官(48)」「バーテンダー(45)」となっている。うわあ・・・リアルだ・・・。
 ・・・まあ確かに、現代であれば、これくらいの年齢でこれくらいの職を持った人たちが結婚できずに居るというのは、「いたって普通」のことで、そして主人公は21歳の女子大学生という設定である。もし、そのような女性が、純粋に自分を恋愛対象として見てくれるのであれば、男の側としては、それこそ「結婚を考えても良い」というものではないか。何より、上の“オジサマ”たちは、歳こそ40代以上となっているが、とても魅力的な人物に他ならない。このアメリカ軍人の少し見下すような態度や、会社員の娘を見つめるような視線、警察官のからかっているような素振りなど、これは俺みたいな男の立場から見てもビビッと来るものである。
 ――やれ、余談であるが、こういう魅力的な40代男性たちが我らが20代女性と結婚してしまうと、前々から分かっていたことだが俺たち20代男性の立場はまるで無いというというものである。しかしながら、この40代男性たちは格好いいことはもちろんとして、何より働いているという時点で俺たちよりも決定的に偉い。今、こういう人たちが、俺たちの20代女性を奪っていってしまうのだ。悲しい・・・この世は悲しい・・・。

 さて、そんなゲーム:「制服の王子様」について、その対応ハードが気になるというものだが、何とこれはAndroid配信というスマートフォン専用タイトルであり、その後にiPhoneへの対応も予定されているようだが、その他の一般的な「ゲーム専用機」への移植は検討されていないという。くそっ、さすがの俺も、そろそろスマホの購入を検討すべき時が来たか・・・?
 ・・・ちなみに、このタイトルは“基本無料”の作品であり、配信体型は“アイテム課金”となっている。そのため、恐らくは男性キャラに気に入られてシナリオを進行させるために、事実上は「課金」が必須となるのであろう。しかし、皆さまご存じのように、むしろ現実のほうが廃課金必須の恋愛シミュレーションであるため、今さらゲームごときで何も恐れることは無いというものである。
 ――何はともあれ、よく分からないが男女ともに注目というゲーム:「制服の王子様」は、この9月末に配信予定となっている。まあ“基本無料”ということで、もしAndroid系スマートフォンを持っていて興味があるという人は、試しにダウンロードしてみても良いのではないだろうか。しっかしまあ、確かにこのゲームに登場する40代男性たちが魅力的であることは認めるが、しかしそこでムッシー君となっている20代男性たちを決して忘れてはいけない。お願いだから20代女性は俺たちと恋愛してください。えっ、「逆に俺たち20代男性が40代女子と恋愛すれば良いんじゃないか」って? うーん・・・(;^o^)

(2012年9月29日)

登録タグ/ マジキチ
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 最近、なんとエロゲーでエロシーンを飛ばすという実に哲学的な若者たちが増えているという。何を隠そう、俺もその一人である。
 ・・・というのも、まず「エロゲー」というものは主に2つに分けることができ、「@シナリオ重視型エロゲー」「A抜きゲー」が存在する。まず@は、読んで字の如くストーリーを重視するタイプのエロゲーであり、内容は様々であるが、大きな流れの中で男性と女性が恋仲になっていく「純愛」モノが主体である。一方のAは、とにかくエロシーンの“実用性”を重視したエロゲーであり、出会ってから数分で恋に落ちたり攻略キャラクターが何十人と居たりして、とにかくエロシーンを出すことが重要となってくる。・・・と、そんな感じで、要は「ストーリーが主体かエロが主体か」という要素で、エロゲーは2つのタイプに分けられるのだ。
 ――そして、今回の話題である「エロシーンを飛ばす輩」とは、「@シナリオ重視型エロゲ―」にて、そのエロ場面をスキップする人間を指すのである。もちろんそんなことをすれば、ただの「シナリオ重視型ゲー」になってしまうのだが、そんなことは百も承知である。ちなみに、「A抜きゲー」でエロシーンをスキップしてしまうと、「ゲー」となり内容が無くなってしまうため、そちらで前述のような行為をする人はほとんど居ないだろう。

 では、なぜ若者たちは「シナリオ重視型エロゲーでエロシーンを飛ばす」のか。それは、ひとえにストーリーの続きが見たいからである。
 ・・・というのも、エロゲーをプレイする人の大体は、女の子の可愛さに惹かれてゲームを遊び始めるのであるが、実際にそのシナリオを何時間も見ていると、段々と物語のほうが主体に思えてくる。そしていざ、物語のクライマックスとなり、そこで唐突にエロシーンを入れられてしまうと、(;^o^)「こんな時にエロなんてやってんじゃねえよ、さっさと続きを見せろ」という気分になってしまうのである。なにせ最近のエロゲーは、オーソドックスな学園モノだけではなく、世界を滅亡から救うような壮大なシナリオが展開されるものも少なくない。そういった重いシナリオの一番重要な部分で、ホイホイとエロシーンなどを挿入されてしまえば、まったくもって興ざめとしか言いようが無いのである。だいたい我々は、物語の中でどのように世界や人間関係が変化していくかということに興味を持っている。だから、男女が仲良くなったあとのエロシーンなどは、正直言ってシナリオ的にはどうでも良いのだ。エロゲーは遊びじゃねえんだよ・・・!
 ――やれ、かつては「エロゲー」と言えば「エロが主体でシナリオはおまけ」という印象が強かったが、最近ではシナリオ重視型のゲームも増えてきており、なんと主人公の男性にボイスが入るなどというコペルニクス的エロゲーも登場しはじめている。シナリオも、「なよなよした主人公がなぜか女の子からチヤホヤされる」というムカムカする展開は鳴りを潜め、皮肉屋だが根は熱くコミュ力もある主人公が、女の子と共に世界を救っていく・・・という超絶リア充なシナリオが基本となっている。そこにはもう、「主人公=プレイヤー」という杓子定規は存在しない。「エロゲー」という文化も、進化を続けているのである。

 しかしまあ、むかし「お酒は20歳から、エロゲーは20歳まで」という言葉を聞いたことがあるが、これは本当に真理だと思うのである。
 ・・・というのも、エロゲーを巡る俺の心理状況の変化を見てみると、若い順から「うわあ!大人になればこんな恋愛ができるのか〜♪♪」「なんで俺に彼女できないのにこのゲームの登場人物はこんなにイチャイチャしてんの!うぜえ!!」「こんなこともあったね」となっている。なお、最後の項目は俺が現実世界でエロゲー的経験をしたという意味ではないため、ご安心いただきたい。俺にとって、同年代の男女たちと様々な経験を通しながら成長をしていくような時間は、もう二度と来ないであろう。だから、「こんなこともあったね」とは、協力したり喧嘩したりしながら成長していくエロゲーの登場人物たちを見ていて、とても懐かしい気持ちになる・・・という意味である。もちろん、そこには羨望や皮肉のまなざしも無いわけではないのだが・・・。
 ――ちなみに、俺は上記のようにエロゲーのエロシーンは基本的にスキップする人間なのであるが、必ず全て飛ばすかというと、そういうわけでもない。何しろ、エロが萌えを内包する場合も存在する(※意味不明)ため、そういう場合の節度を守ったエロシーンは、実用的であり大歓迎というものである。やれ、ゲームではなく、現実世界の○俗とかに目を向けてみると、なんとひと揉み300円などという屈辱的な値段が付けられていたりもするため、尚更というものである。「ひと揉み300円」だぞ!分かるか!?10揉みで3000円、30揉みで9000円だ!苦しいだろう、悲しいだろう。俺だって悲しいよ!!

 ま、何はともあれ、現代の社会では、「エロゲーでエロシーンを飛ばす」という奇怪な行動を取る若者が増えてきているが、それは決して「若者のエロゲー離れ」といった現象ではなく、「ストーリーを楽しみたい」「萌えを味わいたい」という最近のニーズを考えれば、むしろ当然であるとも言える。「エロ」は興味を抱くきっかけではあるが、やはり我々は物語の展開や人間関係に興味を持つし、そういったものから本当の恋愛感情が産まれてくるのであり、それはゲームであっても変わらないのだ。何を言っているか分からないと思うが俺も何を言っているのか分からない。
 ・・・ということで、職人芸のカケラも無い“インターネット”にジリジリとした不快感を感じている皆さまは、ここで「ゲーム」という物の価値を見直し、今回紹介した「シナリオ重視型エロゲー」はもちろんとして、様々な「ゲーム」をプレイしてみてはいかがだろうか。もちろん、そこには取るに足らないような物も存在するが、一方で「何かを伝えたい」と強く思ったいる職人の作品も存在する。そういうものに触れることは、決して人生にとってマイナスにはならないであろう。少し経ったら忘れてしまうようなダラダラとした生活よりも、インパクトのある強いものに触れながら生きていきたいものである。

(2012年9月29日)

登録タグ/ エロゲー
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 最近、「女性が思う男性の理想身長・体重」が、なんと179cm/55kgという驚愕の調査結果が発表されたという。どんなガリガリ君だよ・・・。
 まったく、男性読者の皆さまは、何がおかしいか一瞬で分かるというものであろう。何しろ、コレでは軽すぎるのである。例えば俺は、身長180cm超であるが、体重は75kgほど存在する。そして、筋トレを始める前には65kg前後であったが、これでも軽いと言われるくらいであった。よって、179cm・55kgではあまりに体重が軽すぎると言わざるを得ないのだ。ちゃんとメシ食ってんのか?ああん!?ホイホイチャーハン!!?
 ――ここで、有名なBMI(肥満度)という数値を持ち出してみよう。この数値は、身長と体重から簡易的に「肥満度」と呼ばれる数値を計算できるものであり、その標準は22とされている。で、問題の179cm/55kgのBMIは17.1である。逆に、「BMI=22」で固定して逆算すると、身長179cmならば体重70.4kg、体重55kgならば158.1cmが適性となる。もう単純な話で、やはり179cm/55kgは痩せすぎなのだ。

 では、どうして「理想体型=179cm/55kg」などという電波ポエムが、女性たちの間でまことしやかに話されるようになってしまったのだろうか?
 ・・・これはひとえに、女性たちの男性に対する不理解が存在すると言わざるを得ない。そもそも、男性が女性に対して体重を訊くことは御法度であるが、その逆の「男性の体重」に関しては基本的にどうでもいいため、ぽっちゃり系男子がたまにネタで質問されることを除けば、誰も興味を持たない話題であった。そのため、女性たちの間ではどんどんと妄想が広がっていき、そしていざ「理想の体重」などを訊かれた際に、(;´∇`) 「私は158cm/55kgだけど、ちょっとぽっちゃり気味だから、男性にはもっとスリムで居てほしいな・・・」などと考え、179cm/55kgという哲学的体型を答えてしまうのである。
 ――しかしながら、こう思ってしまうのは、ある種「仕方ない」という面もあるのではないだろうか。だいたい、我々男のほうだって、女性の体型に関して、あれやこれやの妄想をしてしまうというものだ。だから、女性のほうが、そうやって変な思考を巡らせてしまっても、まるで男側に非難をする権利は無いというものである。まあ、現実の男たちは、アゴは尖っていなし、クネクネと変なポーズをしたりはしないし、男同士で汗と汁を舐め合って「つる君の味がするよぅ・・・////」とか言ったりはしない(飛影はそんなこと言わない)が、まあその辺りは男女お互い様という感じで、ご了承いただきたい。

 まったく、今回の記事で、女性側は179cm/55kgという超絶ガリ体型を理想として考えているということが分かった。しかし、当サイトの大半を占める男性読者の皆さまが「179cm/55kg」を自分の身長・体重と比べてみれば、この数値がどれほど常軌を逸しているかということはハッキリしている。よって、そんなものは単なる絵空事であり、それを目指す必要などは、まったくもって無いのである。
 ――しっかしまあ、今回の結果を考えてみれば、逆に俺たち男側が、(*^^q)「身長158cm/体重38kg/Zカップの女の子が好みだな〜♪♪」などと言ったとしても、何ら責任を問われるいわれは無いということである。要は、自分が“太っている”と考えるからこそ、自分と同じような体型の者をさげすみ、自分より体重が少ない者を称賛するのである。が、その「自分が太っている」という前提が間違っているとすれば? 今の人々は、「体重が少ない=良い」と一意的に捉えすぎなのである。だが、もうガリガリ体型は卒業だ。さあ、みんなで体を鍛えて、そしてDP足18あたりをクリアしてやろう!!

(2012年9月29日)

登録タグ/ 社会一般
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 俺は最近、ふとしたきっかけで、再び「東方シリーズ」をプレイするようになった。というわけで今日は、そんな東方シリーズの思い出を語ってみることにしよう。
 ・・・まず、「東方」とは、同人サークル:「上海アリス幻楽団」から発売されているシューティングゲームのシリーズである。その特徴は、何と言っても登場キャラクターが全員女の子ということであり、そのことからネット上では「謎のゲーム」「エロゲー」などと呼ばれることもあるが・・・あくまでゲーム本編は、敵の弾を避けながら全6面のクリアを目指していくごく一般的なシューティングである。
 ――まったく、「東方」シリーズでは、ゲーム本編以上に女の子を使った二次創作が有名であり、その中には正視に耐えないような酷い物まで存在する。しかし、実は俺が「東方」を知ったのも、この「二次創作」からなのである。よって、そのような「二次創作」は、正しく用いれば、「東方」の楽しみを更に広げてくれるものだと言えるだろう。ネット時代の産物として、そういう“なれそめ”があっても良いというものだ。

 さて、ここからは、ゲームとしての「東方」シリーズについて語ってみよう。「東方」でよく聞かれるのが、「難易度が非常に高い」という話である。特に、最高難易度の「LUNATIC」は、一般の人がクリアすることは不可能などという噂まで囁かれているそうだ。が、俺に言わせれば、別に「東方はそこまで難易度が高いわけではなく」、しかも「自然に上達でき」「高難易度でもちゃんとゲーム性が成り立っている」のである!
 ・・・まず、大前提として述べておきたいことが、俺は「東方」のLUNATIC難易度をクリアできる人間であるが、元々シューティングが得意というわけではなく、同系統のゲームは「パロディウス」くらいしかプレイしたことが無かった。そのため、最初は(;^o^)「Easyですら難しい...」と弱音を吐き、当時の友人に失笑されていたものだったが、そこから着々と練習を重ねていき、なんと1ヶ月半後には初プレイであった「東方風神録(“ふうじんろく”)」のLUNATICクリアーに成功したのである! そして、そのことをきっかけとして、俺は「東方」へどっぶりとハマりこんで行ったのだ。なお、その詳しい過程に関しては、【2009年5月26日の日記】からその後1年くらいを読んでいただければよく分かるであろう。うーむ、こういう時にタグ機能がほしいものだ。やはり、過去の日記も全てデーター化するべきか・・・?
 ――ところで、「東方」には決して「高難易度のモードしか無い」ということは無く、EASY/NORMAL/HARD/LUNATICという4つの難易度が存在する。最低難易度のEASYは、ある程度ゲームに慣れている人ならば軽くクリアできる難易度であり、逆にLUNATICは、数十時間レベルの練習が必要となる難しいモードである。また、上達を助けるシステムとして、6面のうち1つを取り上げて最大残機で遊べる「プラクティスモード」の存在も嬉しく、楽しみながらパターンを作っていくことができる。・・・とまあ「東方」は、「やりがいあるゲーム性」と「遊びやすいシステム」に「高難易度モードなどのやり込み要素」を兼ね備えた、実に面白いゲームとなっているのだ。なんか褒めすぎのようだが、良いゲームを褒めるのは当たり前のことだ。「東方」は、決して女の子や音楽や難易度で釣るだけの一発ネタでは無いのである。

 ところで、俺と「東方」の関係を語る時に、切っては切れない作品が、シリーズ第6作の「東方星蓮船(“せいれんせん”)である。俺はシリーズ作品で、この「星蓮船」のプレイ時間が最も長く、かつての熱中したプレイから3年が経った今となっても、「星蓮船」のことが最も色濃く印象に残っている。その意味で、俺にとっては「星蓮船」がシリーズ最高傑作なのである。
 ・・・では、「星蓮船」の何がそんなに印象的だったかと言うと、やはりそれはシリーズぶっちぎりの超々高難易度である。俺は、「風神録」をクリアしたあと、何も考えずに2作目として当時最新作であった「星蓮船」に手を出すことにした。が、それがLUNATICどころかHARDですらクリア困難という超難度を誇っており、風神録のクリアで乗っていた俺は大きく面喰らうことになったのである。が、そんな言葉を失うような超難易度にも、俺は諦めずに挑戦していき、まずはHARDをクリア、そしてついにはLUNATICもクリアすることにも成功した。この過程は本当に苦しいものだったが、そのぶんクリアできた時の達成感は凄まじいものだったのである。
 ――特に、最弱機体とされる「魔理沙B(まりさ: 帽子を被った魔法使いの女の子)でのLUNATIC攻略は凄まじいまでの苦行となったため、それをクリアできたことに関して、俺は今でも心の底で少し誇りに思っていたりするのだ。そんなわけで、俺は「魔理沙B」に対してある種の畏怖を覚えているため、もし俺をビビらせようと思う人が居たとしたら、不気味にほくそ笑みながら「魔理沙B(ボソッ)とかつぶやいてみると良いだろう。

 さて、その後のことである。「星蓮船」クリア後、俺は他のシリーズ作品もプレイしてみたのだが、「星蓮船」で鍛えられた俺にとっては、それはそれはヌルいもので、特に苦労することもなくサクッと全シリーズのクリアに成功してしまった。そして、2011年9月に、現在の最新作である第7作:「神霊廟(“しんれいびょう”)が発売されたのであるが、何となくハマり込むことができず、少しプレイしただけで放置してしまっていたのだ。
 ・・・が、今回ふとしたきっかけでシリーズ全体を振り返ることになり、そして「神霊廟」だけはLUNATICをクリアしていないことを思い出したため、俺は再びそれを目指してプレイしてみようと思ったのである。やれ、本格的なプレイは1年半ぶりであるが、俺はそこまでモーロクしたつもりは無く、また「神霊廟」という作品自体も特に難しいとはされていないため、楽しみながらプレイしていけることであろう。
 ――ちなみに、「東方」は毎年秋に発売されるのが恒例であるが、とりあえず今年はシリーズの正統続編は発売されないようである。となると、来年以降に更なる「東方」シリーズが発売されるか、はたまた「南方」「西方」「北方」などのまったく新しいゲームが登場してくるか。でも、「北方」のシューティングゲームはリアルすぎて嫌だから、やっぱ「東方」がいいな。

(2012年9月29日)

登録タグ/ 東方シリーズ
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 やれ(冒頭から「やれ」と書き出すのは微妙である。置かなくても良いのであれば、それは一般に「意味の無い言葉」とされるだろう)、世の中(主にインターネット上)では、「括弧」(この記号のことである)をあまりにも多用する(「あまりにも多用」というのは重句である。「あまりにも用いる」か「多用する」だけで良いが、語感的には特に不自然でもないため、慣用表現として認められるべきかもしれない)人間(ホモ・サピエンス)馬鹿(中国秦時代の故事で、暴政を行った「趙高」という人物が、鹿を連れてきて「これは馬である」と言い、それに反して「いや、これは鹿だ」と言った者を反逆者として処刑することにより、自分の権力を確かめた・・・という故事から来ている。そこから、「状況の読めない者」、転じて「頭の悪い者」を、「馬鹿」と呼ぶようになったという。なおこれは成り立ちの説の一つであり、実際には他にも諸説が存在するという)と言われている(=「自分が主張したいのだが、それだけでは客観性に欠けるため、とりあえず世間的に言われていることにしたい」という意)。これ(括弧を多用する人間が馬鹿だという風潮)が生まれた(生物の誕生ではないため、「産まれた」という表記は用いない)(体言を受け取るタイプの「の」である。「こと」とも言い換えられる)には、果たして(「いったい」と同義。「予想通り」という意味ではない)どのような背景(バックグラウンド)がある(物理的存在ではないため、「有る」表記は用いない)のか(問題提起)(文章構成を分かりやすくするため、純粋な日本語ではない疑問記号を用いている)
 そもそも(「今回の文章で前提とされるべき知識について説明する」という意味。これを知っておくことで、当文章の論理構成が理解できるようになる)「括弧」(())という記号は、何かを補足(付け加えること)する際(時と場合)に使うものである(だてある調)。つまり(ここからが文章の要旨であるため、現代文の読解であれば下線を引きながら読んでほしい)「後からの補足が必要=その時点で論理的ではない文章を書いている」=もし「完璧に論理的な文章」などというものが実在すれば、確かに後から“括弧”によって補足をする必要も無い)という考え方である。確かに(「前文の内容を言い換えて説明する」の意であるが、後に多くの場合は否定される)、今回(今日)の文章(脱線するが、このようなネット上の文章は、果たしてどのように題するべきなのであろうか。歴代の文筆家で言えば、「随筆」「随想」「雑記」などと称するべきであるが、筆者はプロの作家では無いため、そのような名称を使うことは避けたい。当サイトで実際に用いているのは「日記」のタイトルであるが、この文章は「毎日必ず書いているわけではなく」、また「その日の経験に必ずしも依存しているわけでもないうえに」、しかも「二重底の机に入れておいていざとなったら焼いてしまうような自分だけのもの」でも無いため、「日記」と称することは適切ではない。なお、似たような問題を本文の一部で取り上げた「徒然草」は、Wikipediaによると「随筆」と分類されているため、この日記も「管理人の随筆」と改題すべきなのかもしれないが、「ずいひつ」という言葉は発音しづらいため、当サイトでは用いないことにする。やはり、ここは「言葉の意味は時代時代で変わっていく」ということにして、「管理人の日記」という表記を用いていくのが良いだろう)のような例(イグザンポォ)では、補足となるはずの部分(「カギ括弧の中身」のこと)が長すぎて、かえって読みづらくなってしまっている(実際に、ここまで全てを読んできた人は居るのか?)と言わざるを得ない。例えば(フォオイグザンポォ)、英語(「英」と称しているが、我々日本人が学ぶのは多くの場合「米語」、つまりアメリカ英語のことである)の読解問題(学科試験などで出てくるアレ)では、「ダッシュ」(「――」)を用いて分かりやすく(実際には問題制作者があえて読みづらいことを分かったうえで難度を上げるために出題しているのだが)しているつもりの文章(英文)がよく(頻度の意であるため、「良」の漢字は使わない)有る(こちらは存在の問題なので、「有」の漢字を使用する)が、アレ(指示語を強調する意味でカタカナ表記としている)単に読みづらいだけ(しかもムカムカしてくるタイプの)である。読みやすい(そして、理解しやすい)文章とは、短くなければならない(当たり前だ)。しかし(ここからが管理人の主張であるため、是非とも下線を引いて読んでほしい)、逆に括弧を(1回も)使わない(=()の記号を絶対に用いない)と決めてしまうと、むしろ文章が冗長(無駄に長くなること)になって本旨(本当に伝えたいこと)が分かりづらくなってしまうこと(要は使い方が重要なのだ)がある(「存在する」でも良いが、この場合は語感が悪いため採用していない。「ある」と「存在する」をできる限り交互に使うことがポイントである)ため、必ずしも(後に「〜ない」という否定の表現が続くことが予想される)「カッコつける」(「括弧の記号を付ける」ことと、若者たちが自分を良く見せるために「カッコつける」ことをもじった表現)ことが悪い(良くない)とは限らない(時と場合によってはどんどん括弧の記号を用いていくべきである)ということである(長いよ)
 (――と、まあ。実は、管理人はこの「カギ括弧を大量に用いる」というネタを何ヶ月も前から使おうと思ってきたのだが、いざ実際に書いてみると、そこまで面白くもならなかった。が、管理人としてはここまで書いた時点で既に引き下がることはできないので、もう今日はこんな感じということで、パターンを変えつつ今日の分だけは書いて行こうと思っている。どうかご了承いただきたい。まあ、24歳になってしまった忌まわしき日の文章としては、こんな感じの内容が適当であろう)

 正直(まったく、こんな文章を書いている時点で、「括弧」()という記号のウザさは皆さん分かってくださったと思うが、特に鬱陶しいのが、括弧の中に更に括弧を用いる場合(こういう場合(だよ))である。数学(高校数学レベル以上)的(「の」と置き換えられない表現)では、({[ ]})などと、様々に記号を変えながら複数の括弧を用いていく場合がある。が、俺(筆者は「私」表記に憧れているが、普段は「俺」という一人称を用いている)の感想を言うと、あまりにも括弧の記号を増やしすぎると逆に分かりづらくなるだけ(ね、分かりづらい(理解しづらい)と思う(「辛い」という漢字では他の読み方(“からい”)とも読めてしまう(実際に単体で与えられれば全く区別ができない))でしょ)(これ括弧の数は合っているのか?(Perl(プログラミング言語(俺は好んで用いている))では括弧()(「(笑)」の意ではない)の数が違うとすぐにバグ(不具合のこと(俺はサイト運営でプログラミング言語を用いているが、1つの機能を追加するために5つのバグを追加するほどにはプログラミングが下手である))を起こすからなあ(笑)))彼女(恋愛相手の女性のこと。この用語は時代によって様々な言い方があるが、現在では漢字表記としては「彼女」、また特に強調する場合において「カノジョ」というカタカナ表記を用いるそうだ。ちなみに、某国民的カノジョゲーとは関係が無い。むしろ、俺にとってはアレはクソゲーである)ほしい(俺は常に彼女募集中(?)であるため、当サイトに1割居ると言われている女性読者の方々は、どんどんアピールしていただきたい。もちろん、「単に管理人と飲みたい」というだけの場合にも、俺は暇人のため、男女問わずに歓迎である)
 あと(前の文章に内容を付け加える)お願い(管理人のとても真摯な願望である)だから(いま富とか名誉ならば要らないから)就職(仕事に就くこと)(やれ、昭和の時代には、経済が極端な右肩上がりで人が不足していたということから、人材というものが引っ張りだこで、どこの企業も人を求めていた。だから、志望を出せば大体は受かってしまうし、「交通費」の名目で1企業につき何万円という謝礼が貰えたり、場合によっては内定が出た企業が「旅行」という名目で受験者を誘拐して他の企業を受けさせないということすらあった。だが、それから数十年が経ち、かつての好景気は鳴りを潜め、今の若者達は自分の人生を連続に否定されるような屈辱的な「面接」とやらを何十社、場合によっては何百社と受けなければ生きていくことすらできない状況にすらある。この俺自身も、「30社受けて全て落ちた」と述べているが、これは「こんなにたくさん受けて落ちちゃったよ〜><」という意味ではない。むしろ、30社なんてものは少ないほうで、人によっては50社・100社受けても全く内定がもらえないという場合すら存在する。世代間格差というものは、ここまで極まっているのだ。だから、どうか既に就活が終わった読者の皆さまも、ゆめゆめ若者たちを非難するようなことは行わないでほしいものである。なお、「就活」に関しては、まだ筆者自身が明確に進路が決まっていない状況であるため、また詳しくは今後の機会で書いてみたいと思う)、させて(とても真摯な願いである。このままでは、俺自身も来年からニートである。やれ、「ニート」と言われると、「最初から働く意志のない若者」として、世間では非難されることが多い。もちろん、そういう人間も居るであろう。だが、俺は分かったのだ。「ニート」の中には、最初は働こうと思っていたし、むしろ自分の能力を活かして夢を叶えたいと思って就職活動をしてきた人が居た。だが、そういう人こそが、この屈辱的な「面接」の現実によって打ちのめされ、脱落をしてしまったのだ。なんと世間では、あの全裸にされて調べられ不合格の烙印を押されるような「面接」が、「人間性を見る」などとして、賛美されているのだ。だが「就活」とは、間違い無く人生最大の難関であり、屈辱的な結果に終わることも多い。だから、その理不尽さに打ちのめされて、「もう何もしたくない」、または「社会に対して復讐をしてやる」という意図を持って「ニート」になる人が出てきたとしても、もはや何も不思議ではない。俺はもう、今後「ニート=働く意図の無い人間=失敗した人間」などと一方的なレッテル貼りをすることは二度と無いであろう。何故なら、俺自身も、もはやニートになってもおかしくないくらいに、この「就活」とやらに打ちのめされてしまったからである。7月に「公務員を受ける」という方針に変える以前は、本当に精神的に参ってしまっていたのだ)
 ちなみに(「ちなみに」とは、「本文に関係無いが」という意味であるが、「ここからが本当に伝えたいことだよ」という意を含む場合もある。まあ、「やれ」「まったく」と同じく、特に意味は無い、語気を整えるための表現であると理解していただければ良い)そろそろ(ここまで4000文字以上を書いてきて)飽きて(「飽きる」とは、食に包まれる、つまり「食べ物がたくさんある」という意味である。極めて意味の分かりやすい漢字であるが、むしろ現在の社会では「食」よりも「職」に包まれたいものである)きた(さすがに、ここまでほぼ休み無しで文章を書いてきた。俺の場合は、1日に文体を崩さずに書ける文章はだいたい5000文字が限度なので、そろそろ苦しくなってきた。そして眠い)

 では!(別れの挨拶。ちなみに、個人的には、よく世間で使われる「お疲れ様でした」が、ある辞書で「Japanese "Good bye"」と訳されていたことが衝撃的であった)
 (今回の結論としては、やはり括弧を使いすぎるのは良くないことである。よし、明日からまた普通の日記を書いていこう!!)
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(2012年9月29日)

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 最近、我らが東京都の回りで、勝手に東京領の領有権を主張する不穏な輩が現れているのだという。今日は、そんな東京の領土問題を紹介していくことにしよう。なお、言うまでもなく、今回はネタ記事である。
 ・・・まず、冒頭の件に関して言えば、我らが東京北部の大都市である「池袋」について、近年では埼玉県民が領有権を主張するというとんでもない事態になっている。池袋と言えば、俺もゲーセンや買い物目的でしょっちゅう通っているため、そこが埼玉領となってしまえば大問題だ。しかし、埼玉人のほうは、県民全てが「池袋は我が領土」と口癖のように主張しており、その根拠を尋ねると、「ロシア(飛び地)」と申し合わせたように同じ事を言うため、恐らく埼玉の初等学校では、事実に反した反京教育が徹底的に行われているのであろう。まったく、そういう埼玉側の行為は極めて遺憾であり、埼玉側の利益にならないものである。
 ――その他、東京近辺では、「町田は我が領土」と主張する不遜な一族が居たり、実際に東京から浦安を奪っていった県なども存在するため、全く油断のできない状況となっている。特に浦安に関して、恐らく皆さまは真実を知らないのだろうが、浦安は我らが東京の領土なのである。何故なら、浦安最大の観光地である「東京ディズニーランド」は「東京」の名を冠しており、また浦安領土の大半を占める「埋め立て地」を作ったのは主に東京からの移民であるため、実質的に浦安=東京の領土と言っても過言ではないからだ。だから、もし「浦安が千葉県領」であるといった趣旨の発言があったとしても、千葉県側のいかなる一方的な行為も違法であり無効である。そこには「領土問題」などそもそも存在しないため、「国内司法裁判所に訴える」という千葉県側の主張も、全く取り立てるには値しない(?)

 その他、日本全国では、様々な領土問題が頻発している。例えば、「富士山は静岡領」というのが主に国内的な認識であるが、静岡の県境沿いにある山梨も富士山の領有権を宣言しており、両者の主張は平行線上にある。このような問題は、当事者間でしか解決できないため、仮に我々が山梨県民から「富士山はどこの領土だと思う?」などと質問されたとしても、決して答えを行ってはいけない。
 ・・・また、各県の間だけではなく、それをまとめた地方内でも争いが頻発している。例えば、「新潟は北陸領か東北領か?」という問題は、地図を見て考えてみれば極めて難しい問題であるし、「茨城は南東北である」「福島は北関東である」であるという東北・関東両者の主張には、もはや永遠に解決しないのではないかと思われる勢力争いが存在する。しかし南東北って何なんだこれ。つくば辺りは西南東北か・・・?
 ――その他、最近では「市町村合併」というものが流行しており、「小さな町が大きな市に吸収される」という形で、泥沼の民族対立が生まれることも少なくない。例えば、俺の出身は三重県の久居市であるが、その「久居市」は県庁所在地の「津市」に吸収される形で、既に地理から消滅してしまった。だが、そこで育った人々にとっては、今でもあの地は「久居市」なのである。だから、あの地の人々に「津市ですよ」と言うと、「いや、ここは久居市なのだ――」と、内心嫌な顔をされてしまう。俺にとっても、たとえ「久居」は子供時代を一時的に過ごしただけの場所であったとしても、「故郷を奪われた」という屈辱は、一生残り続けることだろう。しかし実際には、「危機にあった旧久居市を、津市が合併という形で救ってくれた」という考え方もできるため、むしろ恨むのではなく感謝しなければならないのかもしれない。うーむ・・・(;^o^)

 そんなこんなで、埼玉県民が「池袋は我が領土」と主張している事を皮切りに、日本では「浦安は東京領」「町田は神奈川」「富士山は静岡領or山梨領」「名古屋市は三重県が実行支配」「新潟は東北地方」「静岡は愛知の部下」などと、様々な領土問題が頻発している。だが我々は、あくまでも感情的にならず、同じ日本の一員として“お互い”冷静になりながら、そのような問題を解決していかなければならない。とりわけ、インターネットではありとあらゆる罵詈雑言が飛び交っているが、こちらが向こう側の暴言を「その県の総意」として考えてしまうように、向こうの県でもこちらのインターネット上の極論を「その県民の一般的な意見」として捉えてしまう。だが、そうやって対立による安直な愛県心で県をまとめるということは、もはや近代県家としてはあってはいけないことである。
 ――確かに、東京は千葉・埼玉・神奈川などとの領土問題を抱えているが、個人的な面では、俺はそれらの県の人とも仲良くできるし、むしろこれまで散々お世話になってきた。だからこそ、そういった個人関係の輪を広げて、最終的には日本全体が良い関係になっていってほしい。まあ、確かに近くの県同士では様々な問題も生じてくるだろうが、数々の歴史を振り返ってみれば、戦争をしていない県は友好県と言っても過言ではない。だからこそ、“お互いに”(=こちらは既に十分「冷静」であり、国内的な思考に沿って平和的に問題を解決しようと考えているため、主に相手側に「冷静になれ」と求めつつ、極端な行動は控えるよう要求する意)未来的な思考を持って、少しずつ問題を解決していきたいものなのである。まあ、池袋・町田には領土問題すら存在しないし、浦安も我が東京領なのであるが・・・。

(2012年9月29日)

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 いま、若者たちの間で、「ワンチャン」なる言葉が流行している。が、これが俺にとっては歴代最強クラスに意味の分からない言葉となっているのである。
 ・・・やれ、「流行の言葉に着いていけなくなる」ということ自体は、まったくもってよくあることである。しかし、「ナウい」「チョベリバ」「ググる」「とりま」「アーキテクチャ」など、今までの「流行語」というものは、とりあえずは既存の言葉で置き換えられる場合がほとんどであった。が、「ワンチャン」は、今までのどんな概念にも当てはめることができず、本当に全く意味が分からないのである。
 ――まあ、正直に述べると、この言葉に関しては、俺も意味が分からないことしか分からないので、その謎を詳細に説明することは不可能である。もし、あなたがTwitterのアカウントを持っているのなら、試しに「ワンチャン」という言葉で検索してみると良いだろう。そこには、同じ言語で話しているとは思えないような異空間が広がっているのである。「ワンチャン」・・・恐ろしい子!

 では、「ワンチャン」という言語を、まずはその根底から説明してみることにしよう。調べてみたところ、どうやら「ワンチャン」とは、「ワンチャンス(“one chance”)を語源とする言葉であるようだ。だから、例えばゲームなどをプレイしていて、「もう1回攻撃できれば勝てる!」という状況の時に、「ワンチャン来い!」などと使うのは、まったくもって正しいことである。が、その程度の概念ではこの言葉を理解することはできないのである。
 ・・・というのも、どうやら「ワンチャン」には「ワンチャンある」という活用系(?)が存在するらしく、どうやらそれは「チャンスがある・可能性がある」といった意味を表すようだ。具体的な例で言えば、「女の子をデートに誘ってワンチャン!」という文章であれば、それは「女の子をデートに誘って告白します。OKされたら嬉しいな!」という意味である(と思われる)。また、「徹夜試験ワンチャン」ならば、「寝ないで明日の試験を受けます。単位は取れるかな?」という意味であろう。やれ、ここで(;・∀・)「じゃあ『ワンチャン』なんて使わないで『チャンスがある』と書けば良くね?」などという正論を決して言ってはいけない。

 とまあ、そんな感じで、原則に従って使用すれば、「ワンチャン」も決して意味不明な言葉にはならないのであるが・・・問題は「肯定でも否定でも無い言葉に『ワンチャン』と付ける場合」である。例えば、「今日巣鴨にワンチャンwwww」と言われても、それは「どうやら巣鴨に行くらしい」ということ以外は全く意味が分からないという感じになっているのである。
 ・・・そして、まだ有るのだ。その他にも、「ワンチャン」という言葉を、「ひょっとしたら」という意味の副詞として利用したり、更に転じて「肯定的な意味全般を表す単語」として今までの品詞に囚われない存在として利用する場合まで出てきている。それはもはや、今までの概念ではまるで理解ができないと言わざるを得ない。例えば、「ワンチャンワンチャンワンチャンワンチャンwwwww」という文章は、「『ワンチャン!?』というカード(遊戯王に実在する)には」「ひょっとしたら」「活躍できる可能性があるかもしれない」「(特に意味の無い感嘆詞)という意味として、文法的には伝わらなければならない言葉となってしまっているのである。
 ――なお、このような議論をしていると、皆さまの中には(;・∀・)「どうせ特に意味も無く『ワンチャン』と言っているだけなのでは?」と考える人も出てくるであろう。だが、それは言語学的には決してやってはいけないことである。我々は、ある種の言語を「わけがわからないよ」と無下にするのではなく、その言語とそれが生まれた文化的背景をまるごと理解しなければならないのだ。つまり、「ワンチャン」がワンチャンワンチャンしたワンチャンには、それがワンチャンされるワンチャンがあったということで・・・駄目だ・・・やっぱり意味が分からん・・・。

 というわけで、俺の結論としては、これはもう奇語として割り切っていくしか無いと思うのである。「ワンチャン」は、上で書いたように、もはや使っているほうも意味を把握できていないため、その解釈は歴史に委ねるしかない。なんかもう憲法みたいな話になってきたが、言葉とはそういうものである(?)。もしかしたら、この国の国歌のほうも、「君が代は / 千代に八千代に / さざれ石の / 巌となりて / ワンチャンあるで」などという哲学的な歌詞にしてしまえば、最後の部分だけで凄まじいまでに解釈の幅が広がるという、まさにこの国の短歌らしい姿になるかもしれない(?)
 ――何はともあれ、確かに「ワンチャン」という言葉自体は意味不明であるし、それを得意気に使っている姿を見ると、部外者からはムッとしてしまうようなものかもしれない。しかしそういう場合にも、わざわざイラつくのではなく、むしろ「問:下線部『ワンチャン』の指示内容を答えなさい(3点)というある種の問題として捉えるくらいの余裕があっても良いのではないだろうか。これは、言語界からの挑戦状であり、「古典」ならぬ「新典」ないしは「奇典」なのだ。そういう時こそ、当サイト読者の皆さまには、“機転”を利かせてほしいものである・・・。

(2012年9月29日)

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 さあ、いよいよ9月になってしまった。9月と言えば、学生読者の皆さまは(;・∀・)「また学校が始まってしまう・・・」などと憂鬱な気分になっているところであろうが、それが本当は憂鬱ではないどころか、むしろ超絶勝ち組の一員であると言える。だが、そのことに気付くのは、恐らくは相当後になってからであろう。まったく、学校に行けば、JC・JKがすぐ隣に居る環境とか・・・。
 ――さて、俺を含む大学生にとっては、実は9月は正念場という感じになっている。何故なら、大学生の大半は9月も大学の授業が休みだからである。だが、それで「わーいゲームが無限にできるぞ〜♪」などと喜ぶのは甘い。大学生にとって、一番重要なのは時間の潰し方である。とりわけ、9月は部活・サークルなどにおける合宿等のイベントも少ないため、「その自由な時間をどう潰せるか」ということが、今後の人生を大きく左右する要素となるのである。彼女と遊ぶのも良し、友人と思い出を作るのも良し、はたまた自分一人で勉学や趣味にふけるのも良いだろう。
 しかし、そこで無駄に時間を使ってしまうことだけは決してやってはいけないと言える。特に、ダラダラとインターネットを見て不愉快になっているだけの毎日を送っている人が居たとしたら、「そんな毎日で良いのか」という強い警告の言葉を送りたいものである。まあ、そこには主に自戒的な意味が込もっているのだが・・・。

 ところで俺は、友人なり知り合いなりで、「いま持っている人間関係」が有る人は、是非ともその関係を大切にしてほしいと思うのである。
 ・・・というのも、「人間関係」は、実は凄まじいまでに得ることが難しいものである。俺は、最近では特に外出もせずに自分だけの生活を送っているのであるが、「そこで新しい人間関係を得られる」ということは可能性すら無いに等しい。とりわけ、故郷を捨てて都会へとやってきた俺とっては、「大学で得た人間関係」というものが、今の生活の全てであり何もかもなのである。そしてそれは、他の多くの人にとっても同じことであろう。だから、もしそのような関係を捨ててしまうことがあったとしたら、それは間違い無く後悔する結果を生むことになるであろう。
 ――やれ、俺も高校生くらいの時には、(:^o^)「別に人間関係なんていつでも得られるし、暇ならゲームでもやってればいいじゃん?」などという酷い自信を持っていた。が、その後に大学に通って、いかに「人間関係」というものを得るのが難しいということを知り、また一人で生活をしていることの無意味さにも気付いてしまった。もし俺が、「大学での人間関係を全て捨てる」などということをやらかせば、その後に残っているのはただひたすら退屈なだけの毎日であろう。もしそうなれば、俺にとっては一生に関わるほどの損失となってしまう。大学生の秋で、他にやることが無いからこそ、いま持っている人間関係を大切にしたいのだ。

 とりあえず、俺にとっては、今月16・17日には今度こそ出席したい就職試験があり、その合否が出るまでにも時間が掛かるため、少なくともしばらくは「今まで通り」という感じである。
 ・・・まあ、そんなこんなで、ボチボチ日記のほうも暇を見つけて更新していくので、どうぞまったりと応援よろしくお願いします!\(^o^)/

(2012年9月29日)

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