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管理人の日記
確かに(語調を整える用法)、これ(今回の日記)はウザい(鬱陶しい)な(詠嘆)…(詠嘆)

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 やれ(冒頭から「やれ」と書き出すのは微妙である。置かなくても良いのであれば、それは一般に「意味の無い言葉」とされるだろう)、世の中(主にインターネット上)では、「括弧」(この記号のことである)をあまりにも多用する(「あまりにも多用」というのは重句である。「あまりにも用いる」か「多用する」だけで良いが、語感的には特に不自然でもないため、慣用表現として認められるべきかもしれない)人間(ホモ・サピエンス)馬鹿(中国秦時代の故事で、暴政を行った「趙高」という人物が、鹿を連れてきて「これは馬である」と言い、それに反して「いや、これは鹿だ」と言った者を反逆者として処刑することにより、自分の権力を確かめた・・・という故事から来ている。そこから、「状況の読めない者」、転じて「頭の悪い者」を、「馬鹿」と呼ぶようになったという。なおこれは成り立ちの説の一つであり、実際には他にも諸説が存在するという)と言われている(=「自分が主張したいのだが、それだけでは客観性に欠けるため、とりあえず世間的に言われていることにしたい」という意)。これ(括弧を多用する人間が馬鹿だという風潮)が生まれた(生物の誕生ではないため、「産まれた」という表記は用いない)(体言を受け取るタイプの「の」である。「こと」とも言い換えられる)には、果たして(「いったい」と同義。「予想通り」という意味ではない)どのような背景(バックグラウンド)がある(物理的存在ではないため、「有る」表記は用いない)のか(問題提起)(文章構成を分かりやすくするため、純粋な日本語ではない疑問記号を用いている)
 そもそも(「今回の文章で前提とされるべき知識について説明する」という意味。これを知っておくことで、当文章の論理構成が理解できるようになる)「括弧」(())という記号は、何かを補足(付け加えること)する際(時と場合)に使うものである(だてある調)。つまり(ここからが文章の要旨であるため、現代文の読解であれば下線を引きながら読んでほしい)「後からの補足が必要=その時点で論理的ではない文章を書いている」=もし「完璧に論理的な文章」などというものが実在すれば、確かに後から“括弧”によって補足をする必要も無い)という考え方である。確かに(「前文の内容を言い換えて説明する」の意であるが、後に多くの場合は否定される)、今回(今日)の文章(脱線するが、このようなネット上の文章は、果たしてどのように題するべきなのであろうか。歴代の文筆家で言えば、「随筆」「随想」「雑記」などと称するべきであるが、筆者はプロの作家では無いため、そのような名称を使うことは避けたい。当サイトで実際に用いているのは「日記」のタイトルであるが、この文章は「毎日必ず書いているわけではなく」、また「その日の経験に必ずしも依存しているわけでもないうえに」、しかも「二重底の机に入れておいていざとなったら焼いてしまうような自分だけのもの」でも無いため、「日記」と称することは適切ではない。なお、似たような問題を本文の一部で取り上げた「徒然草」は、Wikipediaによると「随筆」と分類されているため、この日記も「管理人の随筆」と改題すべきなのかもしれないが、「ずいひつ」という言葉は発音しづらいため、当サイトでは用いないことにする。やはり、ここは「言葉の意味は時代時代で変わっていく」ということにして、「管理人の日記」という表記を用いていくのが良いだろう)のような例(イグザンポォ)では、補足となるはずの部分(「カギ括弧の中身」のこと)が長すぎて、かえって読みづらくなってしまっている(実際に、ここまで全てを読んできた人は居るのか?)と言わざるを得ない。例えば(フォオイグザンポォ)、英語(「英」と称しているが、我々日本人が学ぶのは多くの場合「米語」、つまりアメリカ英語のことである)の読解問題(学科試験などで出てくるアレ)では、「ダッシュ」(「――」)を用いて分かりやすく(実際には問題制作者があえて読みづらいことを分かったうえで難度を上げるために出題しているのだが)しているつもりの文章(英文)がよく(頻度の意であるため、「良」の漢字は使わない)有る(こちらは存在の問題なので、「有」の漢字を使用する)が、アレ(指示語を強調する意味でカタカナ表記としている)単に読みづらいだけ(しかもムカムカしてくるタイプの)である。読みやすい(そして、理解しやすい)文章とは、短くなければならない(当たり前だ)。しかし(ここからが管理人の主張であるため、是非とも下線を引いて読んでほしい)、逆に括弧を(1回も)使わない(=()の記号を絶対に用いない)と決めてしまうと、むしろ文章が冗長(無駄に長くなること)になって本旨(本当に伝えたいこと)が分かりづらくなってしまうこと(要は使い方が重要なのだ)がある(「存在する」でも良いが、この場合は語感が悪いため採用していない。「ある」と「存在する」をできる限り交互に使うことがポイントである)ため、必ずしも(後に「〜ない」という否定の表現が続くことが予想される)「カッコつける」(「括弧の記号を付ける」ことと、若者たちが自分を良く見せるために「カッコつける」ことをもじった表現)ことが悪い(良くない)とは限らない(時と場合によってはどんどん括弧の記号を用いていくべきである)ということである(長いよ)
 (――と、まあ。実は、管理人はこの「カギ括弧を大量に用いる」というネタを何ヶ月も前から使おうと思ってきたのだが、いざ実際に書いてみると、そこまで面白くもならなかった。が、管理人としてはここまで書いた時点で既に引き下がることはできないので、もう今日はこんな感じということで、パターンを変えつつ今日の分だけは書いて行こうと思っている。どうかご了承いただきたい。まあ、24歳になってしまった忌まわしき日の文章としては、こんな感じの内容が適当であろう)

 正直(まったく、こんな文章を書いている時点で、「括弧」()という記号のウザさは皆さん分かってくださったと思うが、特に鬱陶しいのが、括弧の中に更に括弧を用いる場合(こういう場合(だよ))である。数学(高校数学レベル以上)的(「の」と置き換えられない表現)では、({[ ]})などと、様々に記号を変えながら複数の括弧を用いていく場合がある。が、俺(筆者は「私」表記に憧れているが、普段は「俺」という一人称を用いている)の感想を言うと、あまりにも括弧の記号を増やしすぎると逆に分かりづらくなるだけ(ね、分かりづらい(理解しづらい)と思う(「辛い」という漢字では他の読み方(“からい”)とも読めてしまう(実際に単体で与えられれば全く区別ができない))でしょ)(これ括弧の数は合っているのか?(Perl(プログラミング言語(俺は好んで用いている))では括弧()(「(笑)」の意ではない)の数が違うとすぐにバグ(不具合のこと(俺はサイト運営でプログラミング言語を用いているが、1つの機能を追加するために5つのバグを追加するほどにはプログラミングが下手である))を起こすからなあ(笑)))彼女(恋愛相手の女性のこと。この用語は時代によって様々な言い方があるが、現在では漢字表記としては「彼女」、また特に強調する場合において「カノジョ」というカタカナ表記を用いるそうだ。ちなみに、某国民的カノジョゲーとは関係が無い。むしろ、俺にとってはアレはクソゲーである)ほしい(俺は常に彼女募集中(?)であるため、当サイトに1割居ると言われている女性読者の方々は、どんどんアピールしていただきたい。もちろん、「単に管理人と飲みたい」というだけの場合にも、俺は暇人のため、男女問わずに歓迎である)
 あと(前の文章に内容を付け加える)お願い(管理人のとても真摯な願望である)だから(いま富とか名誉ならば要らないから)就職(仕事に就くこと)(やれ、昭和の時代には、経済が極端な右肩上がりで人が不足していたということから、人材というものが引っ張りだこで、どこの企業も人を求めていた。だから、志望を出せば大体は受かってしまうし、「交通費」の名目で1企業につき何万円という謝礼が貰えたり、場合によっては内定が出た企業が「旅行」という名目で受験者を誘拐して他の企業を受けさせないということすらあった。だが、それから数十年が経ち、かつての好景気は鳴りを潜め、今の若者達は自分の人生を連続に否定されるような屈辱的な「面接」とやらを何十社、場合によっては何百社と受けなければ生きていくことすらできない状況にすらある。この俺自身も、「30社受けて全て落ちた」と述べているが、これは「こんなにたくさん受けて落ちちゃったよ〜><」という意味ではない。むしろ、30社なんてものは少ないほうで、人によっては50社・100社受けても全く内定がもらえないという場合すら存在する。世代間格差というものは、ここまで極まっているのだ。だから、どうか既に就活が終わった読者の皆さまも、ゆめゆめ若者たちを非難するようなことは行わないでほしいものである。なお、「就活」に関しては、まだ筆者自身が明確に進路が決まっていない状況であるため、また詳しくは今後の機会で書いてみたいと思う)、させて(とても真摯な願いである。このままでは、俺自身も来年からニートである。やれ、「ニート」と言われると、「最初から働く意志のない若者」として、世間では非難されることが多い。もちろん、そういう人間も居るであろう。だが、俺は分かったのだ。「ニート」の中には、最初は働こうと思っていたし、むしろ自分の能力を活かして夢を叶えたいと思って就職活動をしてきた人が居た。だが、そういう人こそが、この屈辱的な「面接」の現実によって打ちのめされ、脱落をしてしまったのだ。なんと世間では、あの全裸にされて調べられ不合格の烙印を押されるような「面接」が、「人間性を見る」などとして、賛美されているのだ。だが「就活」とは、間違い無く人生最大の難関であり、屈辱的な結果に終わることも多い。だから、その理不尽さに打ちのめされて、「もう何もしたくない」、または「社会に対して復讐をしてやる」という意図を持って「ニート」になる人が出てきたとしても、もはや何も不思議ではない。俺はもう、今後「ニート=働く意図の無い人間=失敗した人間」などと一方的なレッテル貼りをすることは二度と無いであろう。何故なら、俺自身も、もはやニートになってもおかしくないくらいに、この「就活」とやらに打ちのめされてしまったからである。7月に「公務員を受ける」という方針に変える以前は、本当に精神的に参ってしまっていたのだ)
 ちなみに(「ちなみに」とは、「本文に関係無いが」という意味であるが、「ここからが本当に伝えたいことだよ」という意を含む場合もある。まあ、「やれ」「まったく」と同じく、特に意味は無い、語気を整えるための表現であると理解していただければ良い)そろそろ(ここまで4000文字以上を書いてきて)飽きて(「飽きる」とは、食に包まれる、つまり「食べ物がたくさんある」という意味である。極めて意味の分かりやすい漢字であるが、むしろ現在の社会では「食」よりも「職」に包まれたいものである)きた(さすがに、ここまでほぼ休み無しで文章を書いてきた。俺の場合は、1日に文体を崩さずに書ける文章はだいたい5000文字が限度なので、そろそろ苦しくなってきた。そして眠い)

 では!(別れの挨拶。ちなみに、個人的には、よく世間で使われる「お疲れ様でした」が、ある辞書で「Japanese "Good bye"」と訳されていたことが衝撃的であった)
 (今回の結論としては、やはり括弧を使いすぎるのは良くないことである。よし、明日からまた普通の日記を書いていこう!!)
 (↓コメント欄)

(2012年9月4日)

登録タグ/ 文章制作の話 哲学
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