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管理人の日記 - 2016年6月の記事 / やり込みinFF

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正直、画素数以外はPS2版のほうが圧勝の気が…


 FF10の序盤に、今も忘れ得ぬシーンが存在する。それは、通称「笑顔の練習」と呼ばれるものだ。
 …その概要は、次の通りである。ゲーム序盤、港町ルカにてブリッツボールのトーナメントが終わり仲間が集結するも、ティーダはスピラに迷い込んでしまった責任をアーロンに厳しく問い正す。しかしながら、アーロンが語ったことは、それとは全く異なる驚愕の事実であった。うなだれて皆の前に現れたティーダを、ユウナは励ますのだった。「自分たちは皆に希望を与える召喚士一行なのだから、落ち込んでいる姿など見せたくない」と。そうして、ユウナはティーダに対して「笑顔の練習」を提案する。それを聞いたティーダは、周りが引くような大声で「あっはっはっはっはっはっは!」と笑い始める。それに釣られたユウナも、「あっはっはっはっはっはっは!」と大声を出し、二人は笑い転げるのであった…。
 ――と、まあ。文字にすれば何ということは無いシーンなのであるが、問題はこのシーンがボイス付きということである。FF10と言えば、PS2最初のFFであり、同時にメインキャラに全面的な「声」の演出が入った初めてのFFでもあった。そんな中で、いきなりゲームの中のキャラクターが「あっはっはっはっはっはっは!」と真顔で笑い出すのだから、もう大変である。シナリオをちゃんと最後まで理解した後で見てみれば、これはこれで奥の深いシーンなのであるが、まだゲームが序盤ということもあり、内容的にも演出的にも呆気に取られた人が多かった。かくして、この「笑顔の練習」は、16年が経った今となっても、FFファンの間で奇行として語り継がれているのである…。

 では、余談ではあるが、この「苦しい時に笑顔で励ます」というのは、本当に良いものなのだろうか? 個人的な答えを言えば、NOである。
 …というのも。人は疲労困憊が極に達すると、負の感情表現が鋭敏になる。具体的には、普段なら軽く流すような僅かなきっかけで怒り出したり、小さな物音に怯えて逃げ出したり、暗闇を恐れて精神力を擦り減らしたり、と…。そんな中で「笑顔」だけを見せられたとして、果たして荒れ果てた心は蘇るものなのだろうか。いや、俺の考えを言えば、(;^o^)「正気かコイツ…」などと、むしろ反感をいだくことであろう。そうしてさらに気力を消耗してしまうのだから、まったくもって逆効果としか言いようが無いのだ。
 ――ただし。これは主な原因が「体力」的な場合であって、精神的な時はそうでもない。戦車を正攻法で倒せるのが同じく戦車でしかないように、心の疲れに対して真っ向から立ち向かえるのも、また「心」である。苦しい状況での、自分が信頼している人からの暖かい言葉は、想像以上に人を勇気付けるものだ。( ^o^)「この人も苦しいはずなのに、無理に笑顔を作って皆を励まそうとしてる。なら、もう少し自分も“無理”をしてみようかな」と。そういう等身大の希望こそが、人を苦しい状況で鼓舞することができるのである。つまり必要なのは、「常日頃からの信頼」ということになる。やれ、俺が最も苦手とする科目だな…。

 さて。話が大幅に逸れてしまった。今回の話題は、FF10における「笑顔の練習」である。それは、その「あっはっはっはっはっはっは!!」という奇声により、多くの人を混沌の渦へと巻きこんだ。これは、現代ではどう受け止めるべきなのだろうか。
 …まず言えることが、FF10原作の発売からは既に16年の時が経っているため、既に人々の「笑顔」に関する認識も様変わりしているだろうということである。今回初めて知ったのだが、FF10の主人公であるティーダ君とヒロインのユウナは、共に17歳なのだそうだ。そんなジェネーブ条約に違反しそうな年齢の人物を厳しい戦地に旅立たせている時点で、FF10の世界も相当な困窮状態に陥っているのだなということが思い知られるが、それはさておき、16年と言ったらFF10が発売した年に産まれた人も、既に全員高校1年生になっている時間だ。当時と、「笑顔」の捉え方が異なっていても、なんら不思議はないというものであろう。
 ――というわけで。今回は、2000年時点での「笑顔の練習」と、この2016年現在での「笑顔の練習」を比較してみることにしたいと思う。やれ、管理人である俺も20代後半となり、そろそろ歴史の一翼を見届けているような気持ちになってきてしまった。だからこそ、この「笑顔の練習」に関しても、これからを生きる若い人たちに語り継いでおきたいという気持ちでいっぱいである。さあこれが、昔と今における、「笑顔」というものへの解釈の違いなのだ…!!





笑顔の練習 2000


ティーダ「あっはっはっはっはっはっは!」
ユウナ
「あっはっはっはっはっはっは!」





笑顔の練習 2016


ティーダ「草不可避」
ユウナ
「大草原」























(2016年6月26日)

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1 「クラッシュ・バンディクー」 ついに復活!

今日は2週間のゲームニュースをいろいろまとめる感じで行きたいと思います


 先日アメリカで開催されたE3にて、ついにあの「クラッシュ・バンディクー」シリーズが復活することが発表された。これには、さすがの俺も驚きである。というのも、少し前に「クラッシュ・バンディクーが復活する!?」という記事をずばり書いていたから【2016/5/22】。いやはや、毎回思うけど、こういう予想って案外と当たるもんなんだね…。
 …そんな「クラッシュ・バンディクー」の具体的な発売スケジュールとしては、まずは初代PSで発売した『1』『2』『3』がPS4向けにHDリメイクされるとのこと。ちなみに画像は、「スカイランダーズ」という謎のゲームにクラッシュ君がゲスト出演するというだけのものであり、残念ながらPS4向けの完全新作の情報では無いようだ。でも、まあ…正統続編もきっと出るよね!!
 ――ということで。俺としても、小学生時代に初代PSの『1』『2』『3』をリアルタイムで楽しんだ身なので、このPS4でのクラッシュの復活は実に嬉しいものである。欲を言うと、このようなアクションゲームはVitaで遊びたかったところであるが、まあその辺りはPS4のスペックをフル活用した作品になっていただければ良いというものだ。また、またまた、PS4に楽しみなソフトが増えてしまった。もうこれ、完全にPS2時代超えてるよね…??



2 「ダンガンロンパ」シリーズ 7月3日まで半額

許さないよ


 先日から、新作アニメ放送開始記念として、PSvita版「ダンガンロンパ」シリーズのDL版半額セールが実施されている。
 …まず、「ダンガンロンパ」シリーズは、「閉鎖空間での高校生同士の殺し合い」をテーマとした作品であり、今ではPSハードを代表する推理ゲームとして人気を博している。その魅力は、「仲間内で誰が犯人だか分からない」という独特な緊張感、2Dと3Dの良いとこどりをしたグラフィック表現、殺人事件を扱っているにも関わらずどこかポップな世界観、その他にもPSハードの性能を活かして映像・音声に力が入れられていることなど、枚挙に暇が無い。まさしく、2回目であるがPSハードを代表する推理ゲームと言うしかないのである。現在未プレイで、かつ「文字を読むだけのゲームなんて絶対に許さない!」という場合でなければ、是非ともプレイしていただきたいというものなのだ。
 ――さて。今回半額となったのは、PSP版の『1』『2』を移植した「ダンガンロンパ:1・2リロード」と、その後の2014年に発売されたSTG作品の「絶対絶望少女」の2作である。このうち、前者の『1・2リロード』に関しては、PSP版2作ぶんの内容を1本で楽しめるうえに、半額セール中なら2417円と破格中の破格であるため、もう読者の皆さまにはこれを見た瞬間にダウンロードしてほしいくらいオススメなのである。2作でこの値段であれば、まず損をすることは無いであろう。これをプレイし、2016年発売とされる最新作の「NewダンガンロンパV3:みんなのコロシアイ新学期」に備えていこうではないか。ちなみに、「絶対絶望少女」のほうは…うん、決して糞ゲーではないんだけど、なんともまあ存在自体が微妙というか何というか…ね。



3 「PlayStationVR」 発売日は10月13日!

もはや買わない理由が無い


 E3では「PSVR」こと、「PlayStationVR」の発売日が2016年10月13日ということも発表された。ご存知、ゴーグル型の周辺機器を用いて、360度視界の新たなゲーム体験をもたらすという、PS4最強の飛び道具である。
 …やれ。これに関しては、なんとPS4本体より1万円高いという大量破壊兵器的な価格設定なのであるが、それをもって有り余るであろう新感覚により、現在世界中のゲーマーたちから予約が殺到している。とりわけ、日本でも強い人気を誇る「グランツーリスモ」と「エースコンバット」シリーズの最新作がVR対応ということは、ほんの僅かのわだかまりを持っていた我々の背中を強く後押ししてくれたものである。
 ――というわけで。もちろん、俺に関しても買わないという手は有り得ない。値段は高いが、俺のような社会人ゲーマーにとってはもはや屁でもないというものである。遊びたい作品は、上記の「グランツーリスモ」「エースコンバット」に加え…個人的には、戦車やヘリコプターなどの操縦を含めた、懐かし「Operation:Flashpoint」のような、リアル寄りの戦場シミュレーターが遊びたいというものだ。PSVRは、まったく新しいシステムということで、その使い方は未知数であるが、やはり「車両の操縦」といった体感系が一番相性が良いように思える。これから、果たしてどんなゲーム作品が出てきてくれるのか。PSシリーズは、最新技術を惜しみなく楽しいだけの娯楽産業へと投入してくれる。だから好きなのだ。



4 PS4/Vita「ワールド・オブ・ファイナルファンタジー」に“あの方”が…!!

いったい何者なんだ…


 去年から発表されているFFシリーズのスピンオフ作品:「ワールド・オブ・ファイナルファンタジー」に、声優さんの一人として、あの内田真礼さんが参戦されるそうです!
 …というのも。内田真礼さんと言えば、ご存知「ネットハイ」のヒロイン・シル役を演じてくれた方であり、その心・技・体の揃ったあまりもの名演により、俺にとっては「声優ファン」という奈落の落とし穴に叩き込んでくれた恩人でもある。調べたところによると、本人は前々からFFシリーズへの参戦を望んでいたらしい。年齢的にもちょうど俺と同世代である。なるほど、これは子供時代から、この“ゲーム文化”というものに親しまれてきた方なのであろう。
 ――そういう方が、俺の愛するFFシリーズに、ついに参戦を遂げてくれたのだ。やれ、俺はもともと、PSvitaで出る『FF』シリーズということで、この「ワールド・オブ(略)」に関しても興味をいだいていた。そんな作品に、かつて俺の価値観を揺さぶった、最も尊敬する人の一人が参戦してくれたのである。これはもう、やるしかないというものではないか…。内田真礼さん。また、FFシリーズの世界で再会できることを、楽しみにしておりますよ。



(2016年6月26日)

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結局、彼らは誰のために死にに行ったのか…?


 先日、知人から薦められて「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画を見たのだが、なんとまあ微妙な映画であった。失礼を承知でストレートに言うならば、「所詮、一般向け戦争映画などこんなもんか…」という感じだ。
 …まず、この映画は、第二次大戦末期における旧日本軍の「特攻隊」をテーマとしたものである。特攻とは、要するに飛行機に爆弾を積んで敵艦に体当たり攻撃を仕掛けるというものであり、脱出装置なども用意されていないため、出撃したら100%戦死が確定するという極めて異質な軍事行動である。まあ、ここでわざわざ書かなくてもほとんどの人は知っていると思うけど…。
 ――その中でも、映画:「俺は、君のためにこそ死ににいく」が取り上げているのは、鹿児島県にある知覧飛行場であり、近所で食堂を経営していた「鳥濱トメ」氏の視点から、永遠の空へと旅立っていく隊員たちの姿が描かれている。ちなみに、これらの点は全て史実である。今からは考えられない、そういう苦しい時代があったのである。当たり前であるが、戦争など二度と起こしてはならない。戦場で散って良い命など、ただの一つもあるはずが無いのだ。

 さて。では、そんな「俺は、君のためにこそ死ににいく」の何が面白くなかったのかと言うと、それはあまりに話の内容がワンパターンだったからである。
 …というのも。この映画の内容を要約すると、「@馬鹿な上層部のせいで」「A可哀想な若者が」「Bいっぱい死んだ」というものである。本当にこれだけなのだ。約2時間の作中では、多くの若者が死地へと赴いていくが、その全員が「可哀想な被害者」として描かれ、それを命令する司令官は貫徹完備「非情な加害者」として描写される。もちろん、特攻にそのような側面があったことは否定できない。だが、それだけで終わってしまって良いのだろうか? 例えば、もっと英雄的な観念をもって国のために死んだ人も居たかもしれないし、逆に自暴自棄になってしまった人も居たかもしれない。また、指導部側にも断腸の思いというものはあっただろうし、突撃前の最後の夜に少しでも自由を許すような人格者も居たかもしれない。そういう、良くも悪くも“人間らしい”描写が、この映画には一切存在しないのだ。ひたすら、理不尽な上層部によって、不憫なパイロットたちが死んでいく。これは、それだけの映画なのである。α線さえ防げないくらいにペラペラだ。
 ――やれ。この手の戦争映画と言うと、必ず「戦争を美化している」、または「戦後の自虐主義的な見方だ」などと左右から批判を受けるが、俺に言わせればそんなものはどうでも良いのだ。俺が、こういう教養要素がある(と思われる)映画から知りたいのは、「他とは違った物の見方」だ。「戦争は辛い」「戦争は苦しい」「特攻に散った若者たちも等身大の人間だった」そんなことは百も承知なのだ。だから俺としては、もっと違った視点からの内容を望んでいたのであるが、「俺は(略)」の内容は、「悲しい物語」をひたすら「悲しく」描くのみである。はっきり言って、甘ったるい菓子を延々食べさせられているようで、胸焼けを起こすのだ。それよりはむしろ、クスっと笑えるようなエピソードを入れたり、逆に自暴自棄になって目も当てられないような最期を遂げた隊員たちの姿も描くことで、映画が伝えたかったであろう「戦争の悲惨さ」というものが、より伝わってきたのではないかと思うのだ。…しかしながら、もし「特攻隊」というものを全く知らない現代の人(有り得ない…)が居るのならば、この映画のように悲しさ一辺倒の物を見るのも悪くないのかもしれない。だからこその、冒頭で書いた「一般向け戦争映画などこんなものか」という俺の感想なのである。


もう50年が経ったので、今なら【Youtube】で全編が見れますよ


 ならば、である。「俺が好きな戦争映画」とは、果たしてどのようなものなのだろうか? それは、「@事実をありのままに映すか」「Aまたは悲しいエピソードをあえて笑えるようなタッチで描いている作品」なのである。
 …具体的な作品名を挙げてみよう。例えば、今では戦争映画の代名詞として親しまれている「プライベート・ライアン」は、迫力の戦闘シーンをあるがままに映すことで、アメリカ式の勧善懲悪アクション映画の体を取りつつも、各々に戦争というものについて考えさせられる内容となっている。また、アメリカ人監督がメガホンを取った「硫黄島からの手紙」などは、よく練られたメインシナリオはもちろんとして、「捕虜となって戦死した米軍兵士が持っていた、家族からの手紙」「主人公が戦前に米国で訊かれた『日本とアメリカが戦争をしたらどうなると思う?』という質問に対しての、口を濁しての『すばらしい同盟国になる』という返答」など枝葉のエピソードが、僅か10年にして既に古典作品のような魅力を醸し出している。また、少し古い映画になるが、上の画像にも載せた「海軍兵学校物語:ああ江田島」などは、戦中の海上自衛隊幹部候補生学校士官学校に通う生徒たちの青春をテーマにしたものであり、全編を通して描かれる糞真面目な学生たちのシリアスな笑いが、逆に彼らの悲壮性を際立たせている。その他、純粋な戦争映画とは異なるが、NHKの「映像の世紀」シリーズなどは、淡々としたナレーションが逆に歴史の悲惨さを際立たせており、これをそのまま歴史教育に用いても良いのではないかと思うくらいのクオリティである。恐らくは、2101年の更に新たな世紀になったとしても、語り継がれていることであろう。
 ――というわけで。皆さま、だいたい俺の戦争映画に対する好みの傾向というものが分かったというものだろう。俺は、押し付けがましい作品は嫌いなのである。「戦争は悲惨」「戦争は辛い」そんなことは、もう今さら言われるまでもなく分かり切っているのだ。だからこそ俺は、別の視点から、この“物語”を眺めてみたいのである。それは決して、非人道一辺倒なものでも、はたまた英雄一辺倒なものでもないだろう。あの昭和の時代を生きた人々にも、人間らしい強さと弱さがあったはずである。それを多角的な面から知らなければ、本当の意味であの戦争を知ったことにはならないのだ。口先だけで「愛する人のために死ぬ」と言う人は多いかもしれない。だがそれは、命を投げ打つことの恐ろしさを知ってからでないと有り得ない。勇気とは、ただただ無鉄砲に突撃をしていくことではないだろう。怖さを知り、それを乗り越えるからこそ、その人は後世から真の英雄であると称えられるのである。

 というわけで。本日は、題名にも挙げた映画:「俺は、君のためにこそ死ににいく」に対して、非常に批判的な文体となってしまったものの、今の人々の第二次大戦に関する理解を考えてみれば、このようにひたすら被害者意識的な映画になるのも仕方ないのかもしれない。「自分たちは、悪い軍部に騙されていただけ」…なるほど確かに、これもアイデンティティを守るための一手段というものなのだろう。俺のようなひねくれた人間には物足りないが、確かに何の知識も無い人にとっては、まずは「特攻隊は悲惨だった」という知識を植えつけておくことは、決して悪いことは無いのかもしれない。
 …ちなみに、その「俺は(略)についても、決して悪いところばかりというわけではない。何はともあれ、2007年と新しめの映画ということで、出撃シーンや戦闘シーンの映像表現は大変優れているし、ラストの、散花した仲間たちが桜並木の元に帰ってきたシーンは、オーケストラ版の「海ゆかば」と共に、強く心に残るものであった。B'zによるエンディングテーマ:「永遠の翼」も、明るさの中にどこか切なさを感じさせるような旋律であり、同作の世界観によく合っていると言える。また、俺がこの映画を見て初めて知ったのが、朝鮮半島出身の兵士が、特攻隊員として戦死をしていたということである。だから何だと思う人もいるかもしれないが、日本に尽くし、朝鮮にも尽くし、そしてこの世から去っていった彼らのことを、我々くらいは覚えておいても良いというものであろう。
 ――というわけで。我々日本人にとって、大きな転換期となった“あの戦争”を描いた映像作品は、数多く存在する。そして今回、批判的な目で取り上げた「俺は、君のためにこそ死ににいく」も、見方によっては決して悪い作品では無いのかもしれない。やれ、唯一の不孝は「無知」であり、自分なりに考えをもって行動するのであれば、それは全て国のためへと繋がってくるのである。そして将来、もし我々が“君のためにこそ死にに行”かなければならないような状況になったとしても、せめてその「君」というものを確立しておきたいというものではないか。それが、国家のためであっても、恋人や家族のためであっても、友のためであっても、はたまた愛するこの国のゲーム文化のためであったとしても構わない。多様な価値観を認めることこそが、この国の魅力なのだから。「仲間」の身の元で、死してなおも輝き続けるのである。

(2016年6月26日)

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この作戦の起源にして頂点さ本当に好き


 今週月曜日、驚きの発表が為された。FF12のPS4移植版である「FF12:THE ZODIAC AGE」が、来年2017年に発売されることが決定したのだ。この発表に、俺を初めとするFF12信者は歓喜した…と思いきや! なんとその戦闘システムはインターナショナル版のみをベースとするらしいのだ。この情報に、多くのFF12ファンは複雑な思いを抱えることになったのである。本日は、このことについて語ってみることにしよう。
 …まず、原作である「ファイナルファンタジー12」は、2006年3月にPS2で発売された、FFシリーズ正統ナンバリングの一作品である。その最大の特徴として、「ガンビット」という簡易的なプログラミングを組んで自動戦闘を行うシステムが採用されていることが挙げられる。例えば「@HP<70%の味方 - ケアル」「A目の前の敵 - たたかう」という組み合わせならば、普段は通常攻撃を行いつつ、HPが減ると自動的に「ケアル」を使ってくれる…といった感じだ。その特異な戦闘システムから、「何が面白いのかサッパリ分からない」という全否定が未だに寄せられる反面、システムを理解した際の戦略性はシリーズでも最大級である。また、昨今の“オープンワールド”にも繋がりうる広大なマップとやり込み要素は、今なお色褪せるものではない。ちなみに、発売は2006年ということで、FF12はもう10年も昔のゲームなのであるが、それを聞いて驚きだという人も多いだろう。FF12は、10年が経った今となっても通用するゲーム性を備えた、FFシリーズ最高傑作の一つなのである。
 ――というわけで、そんな傑作が現行機であるPS4に移植されるのは当然とも言えることなのであるが、そこで物議を醸しているのが、「PS4版のベースとなるのがインターナショナル版」ということである。その“インターナショナル版”とは、2007年8月に発売された「FF12 インターナショナル:ゾディアック・ジョブ・システム」のことであり、ファンの間では「INT版」の他、頭文字をとって「IZJS」などとも呼ばれている。特徴として、全員が自由に育成ができたオリジナル版とは異なり、INT版では「ジョブシステム」を用いて成長の方向が制限されているということが挙げられる。また、装備品の性能や敵の能力値など、多くの部分で調整が行われており、オリジナル版とはまた異なる形で楽しんでいくことができる。その他の点として、ストーリーやモブ(モンスター討伐ミッション)・召喚獣などの追加は行われていないが、「トライアルモード」という100連戦の新たなやり込み要素が追加されていることも挙げておくべきだろう。

 というわけで。FF12のオリジナル版とINT版が異なるゲーム性を持っていることは皆さま分かっていただけたと思うが、今回PS4のHD移植においてネックとなっているのが、そのベースとなっているのがINT版のみということである。
 …まったく。俺は、FF13-2のアップデートの件などでもご理解いただけているように、原作にシステムを追加して、それを「改善」と称するのが大嫌いである。多くの人がプレイした原作があるからこその追加版なのであり、我々はその原作の良いところも悪いところも含めて、一つの作品として愛しているのだ。それを「不満点を改善!」などと単なる噛ませ馬として用いられてしまっては、もう最初から疑いの目を掛けざるを得ないのである。今風の言葉で言えば「リスペクト」、そういう精神があれば、間違っても「INT版は原作の不満点が改善されてるからオススメだよ」という言葉が吐けるはずもないのである。
 ――ここで、もっと具体的な話題について触れてみよう。FF12が発売したのは2006年ということで、当時の俺は今となっては無意味な勢力争いに過ぎなかった受験戦争の真っ只中にいたが、その中でも初代【低レベルクリアー】(2006年)を連載し、その後も【低レベル+入店禁止クリアー】(2008年〜2009年)【最強武器決定戦】(2007年〜2010年?)【たたかう禁止 低レベルクリアー】(2012年〜2013年)など、多くのプレイ日誌を書いてきた。そしてINT版においても、【低レベルクリアーINT】(2007年)と題し、本編攻略から裏ボスまでの全要素を味わい尽くすプレイ日誌を連載させていただいた。だから俺は、そもそもFF12のオリジナル版とINT版の、どちらが優れているかということなど言いたくないのである。それは、どちらもとても優れた「FF12」の一員なのだから。

 そんなこんなで。FF12には、「オリジナル版」「INT版」という大きな二つの流派があり、その中でPS4版がINT版のみをベースとしており、そしてそれを「改善」などと称している世間の潮流について、俺が居心地の悪い思いを感じ続けていることについて、分かっていただけたというものであろう。だからこそ俺は、PS4版FF12において、オリジナル版とINT版の両方をベースとするべきだと申し上げたいのである。
 …まったく。PS4のHD版FF12においては、音声については日本語/英語の両方から選べること、そしてグラフィック・ロード時間など善悪がハッキリ付くインタフェース面に関しては、それこそ「改善」と言って良い状況になっている。だからこそ俺は、好みが分かれる成長システム面において、オリジナル版とINT版の両方を収録してほしいのだ。正直に言おう、今回のリマスターについて、不満と思っている点はそれがINT版ベースオンリーだということただ一点なのだ。それがもし、オリジナル・INTの両方から選ぶことができるのであれば、俺は100%文句が無いのである。だって、あれほど待ち望んだ、FF12の現世代でのリマスター作品なのだ。それを、ファンとして否定するなど、あるはずが無いというものではないか。
 ――やれ。実は、いわゆる日本における「インターナショナル」という名称に反して、海外ではINT版の成長システムを採用したFF12は発売されていないため、ひょっとしたら海外ユーザーに全てが新しいFF12をアピールするために、日本における“INT版”を全世界で発売するというのかもしれない。だが、もしそう考えているのであれば、それはまったくもって愚かなことである。何故なら、「ファイナルファンタジー」が生まれたのは日本であり、それを最も愛しているのは日本人に他ならないからだ。だいたい、こんなものは、オリジナル版とINT版の両方を収録すれば済む話ではないか…。どうせ、PS4版のFF12は、PS2で発売されたそれとは区別されることは明白である。ならば、オリジナル・INT版の両方を収録するか、はたまた思い切ってそれらとも異なる第3のバージョンを作り出すしか無いというものではないか。我々は、FF12が本当に好きで、だからこそ今回の「INT版のみがベース」という点について、文句を言っているに過ぎないのだ。多くの人が楽しんだ、そして俺が最もやり込んだオリジナル版のFF12を、正しく後世の人たちへと伝えてほしい。それは、俺が愛するゲーム文化に対して、当然の望むべきことなのである。

(2016年6月26日)

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もう争いはやめて協力し合うべき(※上から目線で)


 本日6月5日は、第二次世界大戦において、あの「ミッドウェー海戦」の火蓋が切られた日である。その結果はご存知の通り、日本海軍が主力空母4隻と優秀な搭乗員を多数失うという大敗を喫したのであるが、それは置いておくことにして、今回扱いたいのはXboxにおける「プロジェクト:ミッドウェー」である。
 …というのも。ご存知の通り、「Xbox」は米マイクロソフト社が発売している家庭用ゲームハードであり、2001年の初代「Xbox」、2005年の「Xbox360」、そして2013年の「XboxOne」の3世代がこれまでに登場している。日本での知名度は極小であるが、世界的には母国アメリカを中心にそれなりの人気を見せており、Xbox360の際にはPS3とシェアを二分する立場にまで躍進を遂げる。これまで、任天堂・ソニーと日本勢が長らく独占してきたゲームハード業界に風穴を開けるものとして、様々な業界から注目をされていた。
 ――そんなこんなの、Xboxの「プロジェクト:ミッドウェー」とは、初代Xbox開発のコードネームなのだという。これは言うまでもなく、第二次世界大戦の「ミッドウェー海戦」になぞらえ、ゲームハード業界においての米企業の反撃をイメージしたものなのだろう。当時マイクロソフトは、将来のオンラインエンターテイメントの全てをPCではなく家庭用ゲーム機に奪われてしまうのではないかと危惧しており、そのゲーム業界のソニーによる独占を防ぐために、あえてゲーム業界へと黒船を送り込んだのだという。ちなみに、それから15年近くが経った今となっては、ネットを介した娯楽の大半は次世代携帯電話が持っていってしまった(年間売り上げはAppStoreが約2兆円、PSstoreが約5000億円)ため、少なくともこの点に関しては、ソニーとマイクロソフトは痛み分けと言って良いだろう。まあ、マイクロソフトとは異なり、そもそもソニーは携帯電話と争おうとはしていないのだが…。

 では、そんなXboxの「ミッドウェー作戦」こと、日本への反抗の結果はと言うと。皆さまご存知の通り、主力艦隊が全て轟沈させられたうえに米本土での消耗戦となり、もはや降伏は秒読みとなっているのであるが、それだけでは面白くないので、そこに至るまでの経緯を説明してみることにしよう。
 …まず、Xboxシリーズがもっとも猛威を振るったのは、PS3と同世代の「Xbox360」の頃である。皆さま今でも覚えておられるように、発売当初のPS3は非常に価格が高いうえに、性能を引き出す開発技術も不足しており、ソフトや出荷台数の面でも問題が山積みであった。一方のXbox360は、2005年発売とPS3よりも1年先行をしており、性能面でもPS3と一長一短と言って良いまでの物を誇っていた。Xbox360は、ライバルであるPS3の難航を逃さず追撃し、世界のゲーマーたちへとシェアを広げていったのである。まあ日本では、バンナム&スクエニファンと地球防衛軍隊員が何となく嫌な気持ちになったくらいだったが、世界的にはPS2時代の1億5000台を売り上げた独占状態から一転、PS3とXbox360で8000万台vs8000万台とシェアを二分することになり、特に最先端ゲームの見本市であるアメリカ国内ではPS3がXbox360に逆転されてしまっていた。この時点で、Xboxの「ミッドウェー作戦」は、ある程度の実を結んだと言えよう。
 ――が、快進撃もここまでであった。現行であるPS4vsXboxOneの世代において、今度はXboxOneがPS4より値段が1万円高いうえに性能が低いというまさかのやらかしを行ってしまったのである。この時代にもなると、ゲームソフトの製作は「PCで作ってそれを各家庭用ハードに落とし込む」という体制が一般的となり、その値段と性能のバランスこそが最も求められていた。そんな中で高くて性能が低いのだから、もはやわざわざXboxOneを買う人など居るはずもあるまい。一応、アメリカ本土での普及台数だけは、母国の意地もあって1:1くらいまでには持ち込めているのであるが、それも出血覚悟で本体価格を切り売りしてギリギリというものであり、世界での普及台数は4000万台vs2000万台と大差が付いている。まったく、赤字覚悟で本体を売ったところで、そのハードが本当に信頼されて長期的なユーザーを生み出すに至らなければ、意味が無いというものなのに…※N社の悪口ではありません。更に言えば、「PlayStationVR」などの新兵器をまだまだ隠し持っているPS陣営と比べ、Xbox側には武器も人材も何一つとして残っていない。もう、この無意味な消耗戦にも終止符を打つべき時が来た。前にも書いたことであるが、ゲーム業界はお互い協力し合い、携帯電話向け“ゲーム”(自称)など他の娯楽へと立ち向かっていくべきなのである。

無理に移植をしたからこんなことに…


 というわけで。ここまで、Xboxが現在の消耗戦に至るまでの経緯を簡単に説明したわけであるが、ここからは1ゲーマーとしての俺の感覚から述べてみることにしよう。ここからは基本的にXboxの悪口なのでご注意ください。
 …まず、今でも忘れられないのが、あの「ファイナルファンタジー13」の惨事である。当時、FF13はPS3独占タイトルとされていたが、その後にXbox360にも対応することが発表された。当時、最先端であったブルーレイを採用したPS3とDVDのXbox360では6倍もの容量差が存在し、Xbox側は3枚組みの体制を採用したものの、大幅にゲーム性が制限を受けてしまったのである。具体的には、極端な「1本道」構成はDVDのメディア容量に合わせたものであろうし、不完全な「改造システム」も、前のマップに戻れなくなって仕様を変更したものだと考えれば納得が行く。また、ゲーム中ではイベント専用マップであった「ライトニングの家」も、もともと探索できる場所として作られていたらしい。これらは全て、対応ハードに急遽Xbox360を追加したことによる弊害である。もちろん、製作者側から正確に明言されたわけではないのだが、恐らくは背後に金の動きがあって、言えないことまでを含めた契約なのであろう…。
 ――その他の面においても。例えば、「エースコンバット」シリーズは、元々PSハードで成長してきたソフトであったが、その人気の絶頂期に、最新作である『6』がXbox360で発売されることが決定された。そして、その『6』は、未だにPS3などの他ハードに移植されていない。これは、マイクロソフトが開発費の一部または全部を負担して強引に移籍させたため、契約上絶対にPSハードで出すことができないという説が濃厚である。ちなみに、シリーズはその後、昨年末にPS4での『7』が発表されるまで迷走に次ぐ迷走を重ね、一時期は本気で打ち切りさえ心配されていた。これを考えると、ひと時の金に翻弄され、ユーザーを裏切ることがいかに愚かかということがよく分かるというものだろう※C社の悪口ではありません。その他、「テイルズ」「地球防衛軍」など数多くのタイトルが、この「プロジェクト:ミッドウェー」の飛び道具として用いられたのである。それらの作品は、後にPSハードへと移植が為されるまで、そのほぼ全てが微妙な扱いになってしまっていた(※ちなみに「アイドルマスター」はゲーム機版の初代はXboxなので一応除外)
 …要するに。マイクロソフトは、金の力で強引に日本市場を奪おうとしたのである※N社の悪口ではありません。当時、一過性に過ぎなかった謎の体感ゲームハードが大ブームになっていたこともあり、その「ミッドウェー作戦」が本当に成功していたら、本当に日本のゲーム市場が台無しになっていてもおかしくなかったのである。とりわけFF13の件は、俺のようなFFシリーズファンにとって、今でも暗い影を落とし続けている。こういう相手に、怒るのではなく「争いをやめて協力しよう!」などと言っている俺は、たぶん相当心が広いよ。

 ということで。Xboxの「ミッドウェー作戦」は失敗に終わり、もはやゲームハード戦争の結末は誰の目にも明らかになった。Xbox360での奇襲攻撃はある程度の功を奏したが、もはや今世代となっては、日本市場でのXboxOneの普及台数は累積6万台とPS4の1ヶ月の販売数よりも少なく、マイクロソフト陣営は日本に攻撃を仕掛ける意思すら無くしてしまった。そして、頼みのアメリカ国内においても、赤字覚悟の白兵戦を用いて、やっとPS4と1:1くらいのところにまで持っていけているに過ぎず、もはやそれは「消耗戦」と形容するしかないのである。
 …もっとも、これは至極当然のことである。だって、性能が低いうえに値段が高いハードを出してしまったのだから。そのうえ、前世代に日本市場で行った数々の行為を見るに、別にマイクロソフトはゲーム文化自体が好きとかそういうわけではなく、ありもしないソニーのPC業界への侵略を恐れて、勝手に自爆しただけのようだ。そういう、金の力でエンターテイメントを台無しにしようとした奴が滅ぶのは、至極当然であり、因果応報というものなのである。ちなみに、こういうことを書くと、(;・∀・)「でもソニーだって、儲かるからゲーム業界に参入しただけなんじゃ…?」と思う方も居るかもしれない。確かに、当初はそういう面もあったのかもしれないが、昨今の「大小様々なゲームへの開発支援」「ネットワークサービスの充実」「振るわなかったハードの根強い市場存続」などを鑑みるに、今やソニーこそが最もゲーム業界を愛している企業であることは疑いようもない事実なのである。そもそもソニーは、映像・音声などの技術を活かしたエンタメ事業にも力を入れている会社であり、映像・音声の最新技術を娯楽部門で活かしたゲーム作品に傾倒するのは、当然とも言える話なのである。
 ――ちなみに。この、初代Xboxの開発コードネームが「プロジェクト:ミッドウェー」だったことは、割と最近になって公開されたのであるが、これが発売当初に明かされていなくて良かった。だって、これはもう明らかな死亡フラグなのだから。この手の、歴史に学んで同じ名称を付けたものに、成功したパターンを見たことがない。逆に日本人としては、何だかよく分からないけど相手が勝手に自爆していったという微妙な思いを感じている。これが逆に、PS陣営が米本土上陸を決意しての「プロジェクト:ミッドウェー」ならばそれはそれで燃えるのかもしれないが、やはりそういうことを言うと必ず失敗してしまうため、もはや何も言わずにやってくれれば良いというものである。やれ、今やゲーム業界も現実世界と同じように、戦国時代が終わりを告げ、無駄に覇権を争って殺し合う必要など一切無くなってしまった。だから我々は、過去の辛い歴史を乗り越えて、「ゲーム」という同じ文化を愛する共に者として、手を取り合っていくべきなのである。ん? まだ何か一社残っているって? 案ずるな。あいつももう長くないよ。

(2016年6月26日)

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2016年6月4日(土)
「遊戯王5D's」
の思い出
 
いろいろあった3年だったね


 「遊戯王5D's(ファイブディーズ)」は、アニメ「遊戯王」シリーズの第3作であり、2008年4月から2011年3月に掛けて全154話が放送された。本日は、この俺が最もお気に入りとする作品について振り返ってみることにしよう。
 …まず、概要から述べてみよう。「遊戯王5D's」は、シリーズ第2作:「GX」に引き続いたアニメオリジナル作品であり、その大きな特徴として、バイクに乗ってカードバトルを行う「ライディングデュエル」←!?が採用されたこと、そしてカード的には「チューナー」を用いて強力モンスターを呼ぶ「シンクロ召喚」が新登場したことなどが挙げられる。
 ――そして。放送終了から5年が経った今となっても、この「5D's」はファンから深く愛されている。その人気たるや、もはや原作漫画にも匹敵するクラスであり、新たなシリーズのパイオニアと呼んでも過言ではない。やれ、こういう記事ではネガティブなことはあまり言いたくないのであるが、この後の第4作:「ゼアル」と第5作:「アークファイブ(放送中)あまり出来が良くないとされている(参考:ゼアルに関しては【2014/3/25】、アークファイブに関しては【2015/11/3】などを参照)ことも合わせ、今なお「5D's」は根強い人気を誇っているのだ。

 では、そんな「5D's」の何が良かったのだろうか。それは、熱さと笑いのバランスがとてもよく取れていることである。
 …まず「熱さ」に関してであるが、デュエル面に関して言えば、新システムである「シンクロ召喚」を用いた見ごたえのあるデュエルが多く展開される。もちろんシンクロ一辺倒というわけではなく、従来通りの特殊な効果モンスター、「ダークシンクロ」「地縛神」といった闇のカード、未来世界からの刺客:「機皇帝」などなど、多彩なカードが登場する。また、それらは全て物語と連動しており、デュエルを通してよくキャラクターの人間性が表現されているのだ。(;・∀・)「えっ、そんなのカードバトルアニメだから普通じゃね?」と考える方も多いだろう。うん、俺もそうだと思うんだけどね…。また、物語面においても、南米神話をモチーフにした第1部と未来世界からの侵略者と戦う第2部のメインシナリオは共に良く練られており、その枝葉に渡るエピソードまで人気が高い。やれ、作中には1回しかデュエルを行わないキャラクターも多いのだが、そういった人物に関しても描写が薄いと感じることはまず無い。その、物語とカードバトルが連動した熱さにより、登場キャラクターのデッキをリアルカードで作りたいと思った人も多いはずだ。これはもう、単体のアニメ作品としても、カード販売の宣伝作品としても、理想的な作品なのである。
 ――また「笑い」に関してであるが、上記のような熱さとは裏腹に、5D'sはシリーズで最もネタ要素に満ちていると言って良い。もはや伝説となった「決闘者がバイクと合体」を皮切りに、「まるで意味が分からんぞ」「僕だ!」「俺に合った仕事が無い以上仕方あるまい」などの界隈で今も愛される台詞、その他にも狂った世界観を表現した「どうしてD・ホイールと合体しないんだ」などなど…。全般に、後続の作品で見られるような媚びたネタが少なく、むしろ真面目にやっているからこそ笑ってしまうようなものが多いということは特筆しておくべきであろう。このネタとガチの絶妙なバランス感覚も、「5D's」の大きな魅力であると言えるのだ。

 というわけで。ここからは、「5D's」に関する俺の思い出を述べてみることにしよう。放映時期の2008年〜2011年と言えば、ちょうど俺にとって大学時代を横断する時期であり、初めアニメ版に興味を持った「GX」の終盤から続けて視聴を開始し、その勢いを保ち続けて最後まで見続けてしまった。154話という長期アニメをリアルタイムで全て視聴するのは、恐らくこれが最初で最後であろう。
 …そして、その当時の感想としては。序盤こそ世界観の変更に戸惑ったものであったが、すぐにドップリとハマり込んでしまい、第2部のWRGP編に達する頃には次回予告を何度も何度も繰り返し見ながら放送を首を長くして待ったものだった。また、当時はアルバイトをしており資金力に余裕があったため、リアルカードも購入してデッキを作り、友人と朝まで対戦を楽しんでいた。また、ゲーム版であるPSPの「タッグフォース」シリーズも、この頃全盛期を迎えており、1年ごとに発売された『4』『5』『6』の3作を、アニメ展開と併せながら大いに楽しんでいた。…とまあ、こんな感じで。要するに、「5D's」の時代は、俺にとって最も「遊戯王」というものにハマり込めた時間だったのである。
 ――そんな「5D's」で、俺が最も好きなエピソードはと言うと。基本的には全て好きなのであるが、あえて挙げるのであれば、ベタではあるがWRGP編の終章:アーククレイドルであろうか。物語的にもカードバトル的にもまさに最高潮というものであり、あれほど盛り上がったアニメを俺は他に知らない。1年以上に渡ったWRGP編の総決算となる物語面も、驚愕の戦術が数多く用いられるデュエル面も、その全てが素晴らしい。あれをリアルタイムで見れたのだから、当時の俺はどれだけ満ち足りていたものだっただろうか。

 さて。一応、その後の過程についても述べておくことにしよう。大満足で「5D's」の視聴を終えた俺は、続けてシリーズ第4作の「ゼアル」も見始めたのだが、ご存知の通り、序盤こそ歴代シリーズ並みの出来を保っていたものの、物語が進むごとに少しずつデュエル内容が悪化していき、第2部が始まる頃には興味をほとんど失ってしまっていた。そして第5作の「アークファイブ」に関しては、「ゼアル」からの巻き返しを期待したのであるが、ごく一部の要素が改善された以外は更に出来が悪くなってしまっており、特に第2部の『5D's』をパクっ…オマージュした「シンクロ次元編」のあまりの出来の悪さと不快さに耐えられず、ついには途中で視聴を打ち切ってしまった。ここで、俺の中での「遊戯王」は終わったのである。一人の5D'sファンとしてシンクロ次元編は無かったことにしています。マジです。
 …というわけで。俺にとって「遊戯王5D's」は、幼い頃に親しんだ遊戯王の新作として、アニメと連動してカードを楽しんだ作品として、そして心の底から楽しむことができた最初で最後のアニメとして、今なお忘れえぬ価値を持っているのである。これほど没頭できるものは、アニメ作品はもちろん、他の娯楽においても人生で何度も出会えるものではない。それくらい、俺にとっては貴重な作品なのである。
 ――さて。そんな俺が、いま望むこととしては。もちろん、一番としてはアニメ最新作がまた「5D's」のように楽しめる作品となってくれることなのだろうが、もう新作については完全に無関心になってしまったため、正直期待をしていない。というわけで、俺が望むのは、「5D's」のBlu-ray版の発売である。遊戯王は「5D's」から16:9のワイド画面での制作となり、数多くの迫力ある映像を楽しむことができる。やれ、2016年という時代になると、ハッキリ言ってただ視聴するだけであればいろいろと手段があるのだが、そういうものではなく、俺は最高画質の「5D's」を楽しみたいし、この傑作をいつでも楽しめるよう手元に置いておきたいのである。うん。いつまでだって待ってますよ。

(2016年6月26日)

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大東亜 築く力だ この一票 (大東亜:東アジア夏の季語)


 先日、自民党から「国に届け」というマジキチじみた名前の薄い本選挙公報漫画が公開された。その内容は、主人公の少女が“政治家を母に持つイケメン生徒会長”に恋したことをきっかけに政治にハマり込んでいく…というこれまたキチガイみたいな内容である。ちなみに、この漫画に関して、女男平等を訴える市民団体(自称)からは「『女=無知』というイメージで国民を洗脳しようとしている」という批判の声が挙げられているようだが、だいたいこういうことで怒り出すやつはそもそもその自覚があるというのはまた別の話である。余裕が無い奴ほど他者への攻撃性が強くなる。○朝鮮が良い例だ。
 …さて、そういうシビアな話は置いておいて。今回お話ししたいのは、「『好きな人をきっかけに興味を持つ』のは悪いことか否か?」というものである。やれ、このサイトの読者の皆さまは、だいたい10〜20代が中心だということで、叶わなかったにせよ、恋愛経験を持つ人が大多数というものであろう。そういう時、そのお気に入りの人に近付きたくて、はたまたその人の気持ちを理解したくて、相手が興味を持っているのと同じ事柄を好きになろうとした人は多いはずだ。例えば冒頭の漫画では、政治が好きなイケメン生徒会長と仲良くなりたくて、主人公の少女は参院選の投票へと足を向けている。マジ芋けんぴ並みの眉唾であるが、何はともあれ、恋愛感情をきっかけに、「投票を行う」という意識高い系への一歩を踏み出してくれたということで、これは歓迎すべきことであろう。よく言われることだが、「好きの反対は無関心」…その“無関心”から脱してくれた時点で、冒頭の少女は国にとっての大きな利益となっているのである。
 ――ということで。今回の話題である「『好きな人をきっかけに興味を持つ』のは悪いことか?」という疑問に対して、もう管理人としての意見は決まっており、「それは決して悪いことではない」というものなのだ。どんな分野においても、新参者に対して冷たくするものは、その先が知れているというものである。冒頭の例で言えば、素敵な生徒会長を発端に政治に対して興味を持った時点で、もうその少女は正義なのだ。もちろん、恋が破れて政治に全く興味が無くなってしまう可能性もあるのだが、逆に他者へと影響を与えるような真の政治ファンになってくれる可能性も存在する。間口を広げることに、悪い面は存在しないのだ。

 では、ここで。「好きな人をきっかけに、何かに対して興味を持つ」というものに関して、俺の例を挙げてみることにしよう…と思ったが。残念ながら、俺に関しては特に述べられるエピソードが存在しないのである。
 …というのも。俺が一番の特技としている「やり込みプレイ」「文章作成」に関しては、割と自分で編み出した趣味であり、誰の影響も受けたものではない。最も好きな「FFシリーズ」に関しても、兄が知り合いから借りた『8』をプレイしたことがきっかけであるし、その文体に関しても、特に誰を参考にしたというものではない。むしろこれが、当時好きだった女性が文豪で、その人が「やれ」とか「そんなこんなで」などという台詞を使いまくっているのであれば、かえって分かりやすいというものなのであるが…。
 ――まあもちろん、俺もその時々の恋愛感情から影響をされたという面を無理に否定はしないのだが、俺は自己完結性に重きを置いており、人生レベルで誰かに影響を受けるということはこれまでもこれからも無いであろう。そもそも誰かに依存をするのは、得てして安定をしないものである。「趣味」という、自分の存在意義にそのまま資するものを、誰かに依存してしまって良いのだろうか? 俺の答えは、NOなのである。まあ、この辺りは、俺の乏しい人生経験から生み出したものであるため、読者の皆さま方それぞれにとってはまた異なる結果になることであろう。ちなみに、言うまでもないことであるが、この結果をもって、「俺がこれまで出会ってきた人々が魅力的ではなかった」という意味を示すわけでは決してないということを記しておきたい。むしろ、俺には知り合うことすら勿体ないくらいの人々だったよ…。

 さて。
 …前置きからの流れが滅茶苦茶になってしまったが、今回のテーマは「好きな人をきっかけに興味を持つのは正しいのか否か」というものであった。その是非を考えるには、やはり「好きな人」の例を出し、「その人の趣味」を挙げて、「それに興味を持てるかどうか」ということを検討していくのが一番というものであろう。
 ――というわけで。本日は、この社会に大きな影響力を持つ人々を挙げて、その人の趣味に興味を持てるかどうかということから、本日のメインテーマを考察していくことにしよう。これらを見て、果たして皆さまはその人の「趣味」に、強いては「その人自身の生き方」に興味を持てるであろうか。何はともあれ、「異性への興味」というものは、その人の社会全体への貢献心を象徴しているかのようにも思える。では、早速行ってみよう。果たして皆さまは、”自分が恋い慕う人々”に対して興味を持ち、同じものを好きになろうと思えるものかな…??



1


政治に興味を持つ




2


東大進学




3


挫折を乗り越え…




4


なんかもう全てがどうでも良くなった\(^o^)/























(2016年6月26日)

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