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管理人の日記
「@馬鹿な上層部のせいで」「A可哀想な若者が」「Bいっぱい死んだ」
結局、彼らは誰のために死にに行ったのか…? |
先日、知人から薦められて「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画を見たのだが、なんとまあ微妙な映画であった。失礼を承知でストレートに言うならば、「所詮、一般向け戦争映画などこんなもんか…」という感じだ。
…まず、この映画は、第二次大戦末期における旧日本軍の「特攻隊」をテーマとしたものである。特攻とは、要するに飛行機に爆弾を積んで敵艦に体当たり攻撃を仕掛けるというものであり、脱出装置なども用意されていないため、出撃したら100%戦死が確定するという極めて異質な軍事行動である。まあ、ここでわざわざ書かなくてもほとんどの人は知っていると思うけど…。
――その中でも、映画:「俺は、君のためにこそ死ににいく」が取り上げているのは、鹿児島県にある知覧飛行場であり、近所で食堂を経営していた「鳥濱トメ」氏の視点から、永遠の空へと旅立っていく隊員たちの姿が描かれている。ちなみに、これらの点は全て史実である。今からは考えられない、そういう苦しい時代があったのである。当たり前であるが、戦争など二度と起こしてはならない。戦場で散って良い命など、ただの一つもあるはずが無いのだ。
さて。では、そんな「俺は、君のためにこそ死ににいく」の何が面白くなかったのかと言うと、それはあまりに話の内容がワンパターンだったからである。
…というのも。この映画の内容を要約すると、「@馬鹿な上層部のせいで」「A可哀想な若者が」「Bいっぱい死んだ」というものである。本当にこれだけなのだ。約2時間の作中では、多くの若者が死地へと赴いていくが、その全員が「可哀想な被害者」として描かれ、それを命令する司令官は貫徹完備「非情な加害者」として描写される。もちろん、特攻にそのような側面があったことは否定できない。だが、それだけで終わってしまって良いのだろうか?
例えば、もっと英雄的な観念をもって国のために死んだ人も居たかもしれないし、逆に自暴自棄になってしまった人も居たかもしれない。また、指導部側にも断腸の思いというものはあっただろうし、突撃前の最後の夜に少しでも自由を許すような人格者も居たかもしれない。そういう、良くも悪くも“人間らしい”描写が、この映画には一切存在しないのだ。ひたすら、理不尽な上層部によって、不憫なパイロットたちが死んでいく。これは、それだけの映画なのである。α線さえ防げないくらいにペラペラだ。
――やれ。この手の戦争映画と言うと、必ず「戦争を美化している」、または「戦後の自虐主義的な見方だ」などと左右から批判を受けるが、俺に言わせればそんなものはどうでも良いのだ。俺が、こういう教養要素がある(と思われる)映画から知りたいのは、「他とは違った物の見方」だ。「戦争は辛い」「戦争は苦しい」「特攻に散った若者たちも等身大の人間だった」…そんなことは百も承知なのだ。だから俺としては、もっと違った視点からの内容を望んでいたのであるが、「俺は(略)」の内容は、「悲しい物語」をひたすら「悲しく」描くのみである。はっきり言って、甘ったるい菓子を延々食べさせられているようで、胸焼けを起こすのだ。それよりはむしろ、クスっと笑えるようなエピソードを入れたり、逆に自暴自棄になって目も当てられないような最期を遂げた隊員たちの姿も描くことで、映画が伝えたかったであろう「戦争の悲惨さ」というものが、より伝わってきたのではないかと思うのだ。…しかしながら、もし「特攻隊」というものを全く知らない現代の人(有り得ない…)が居るのならば、この映画のように悲しさ一辺倒の物を見るのも悪くないのかもしれない。だからこその、冒頭で書いた「一般向け戦争映画などこんなものか」という俺の感想なのである。
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ならば、である。「俺が好きな戦争映画」とは、果たしてどのようなものなのだろうか?
それは、「@事実をありのままに映すか」「Aまたは悲しいエピソードをあえて笑えるようなタッチで描いている作品」なのである。
…具体的な作品名を挙げてみよう。例えば、今では戦争映画の代名詞として親しまれている「プライベート・ライアン」は、迫力の戦闘シーンをあるがままに映すことで、アメリカ式の勧善懲悪アクション映画の体を取りつつも、各々に戦争というものについて考えさせられる内容となっている。また、アメリカ人監督がメガホンを取った「硫黄島からの手紙」などは、よく練られたメインシナリオはもちろんとして、「捕虜となって戦死した米軍兵士が持っていた、家族からの手紙」「主人公が戦前に米国で訊かれた『日本とアメリカが戦争をしたらどうなると思う?』という質問に対しての、口を濁しての『すばらしい同盟国になる』という返答」など枝葉のエピソードが、僅か10年にして既に古典作品のような魅力を醸し出している。また、少し古い映画になるが、上の画像にも載せた「海軍兵学校物語:ああ江田島」などは、戦中の海上自衛隊幹部候補生学校士官学校に通う生徒たちの青春をテーマにしたものであり、全編を通して描かれる糞真面目な学生たちのシリアスな笑いが、逆に彼らの悲壮性を際立たせている。その他、純粋な戦争映画とは異なるが、NHKの「映像の世紀」シリーズなどは、淡々としたナレーションが逆に歴史の悲惨さを際立たせており、これをそのまま歴史教育に用いても良いのではないかと思うくらいのクオリティである。恐らくは、2101年の更に新たな世紀になったとしても、語り継がれていることであろう。
――というわけで。皆さま、だいたい俺の戦争映画に対する好みの傾向というものが分かったというものだろう。俺は、押し付けがましい作品は嫌いなのである。「戦争は悲惨」「戦争は辛い」…そんなことは、もう今さら言われるまでもなく分かり切っているのだ。だからこそ俺は、別の視点から、この“物語”を眺めてみたいのである。それは決して、非人道一辺倒なものでも、はたまた英雄一辺倒なものでもないだろう。あの昭和の時代を生きた人々にも、人間らしい強さと弱さがあったはずである。それを多角的な面から知らなければ、本当の意味であの戦争を知ったことにはならないのだ。口先だけで「愛する人のために死ぬ」と言う人は多いかもしれない。だがそれは、命を投げ打つことの恐ろしさを知ってからでないと有り得ない。勇気とは、ただただ無鉄砲に突撃をしていくことではないだろう。怖さを知り、それを乗り越えるからこそ、その人は後世から真の英雄であると称えられるのである。
というわけで。本日は、題名にも挙げた映画:「俺は、君のためにこそ死ににいく」に対して、非常に批判的な文体となってしまったものの、今の人々の第二次大戦に関する理解を考えてみれば、このようにひたすら被害者意識的な映画になるのも仕方ないのかもしれない。「自分たちは、悪い軍部に騙されていただけ」…なるほど確かに、これもアイデンティティを守るための一手段というものなのだろう。俺のようなひねくれた人間には物足りないが、確かに何の知識も無い人にとっては、まずは「特攻隊は悲惨だった」という知識を植えつけておくことは、決して悪いことは無いのかもしれない。
…ちなみに、その「俺は(略)」についても、決して悪いところばかりというわけではない。何はともあれ、2007年と新しめの映画ということで、出撃シーンや戦闘シーンの映像表現は大変優れているし、ラストの、散花した仲間たちが桜並木の元に帰ってきたシーンは、オーケストラ版の「海ゆかば」と共に、強く心に残るものであった。B'zによるエンディングテーマ:「永遠の翼」も、明るさの中にどこか切なさを感じさせるような旋律であり、同作の世界観によく合っていると言える。また、俺がこの映画を見て初めて知ったのが、朝鮮半島出身の兵士が、特攻隊員として戦死をしていたということである。だから何だと思う人もいるかもしれないが、日本に尽くし、朝鮮にも尽くし、そしてこの世から去っていった彼らのことを、我々くらいは覚えておいても良いというものであろう。
――というわけで。我々日本人にとって、大きな転換期となった“あの戦争”を描いた映像作品は、数多く存在する。そして今回、批判的な目で取り上げた「俺は、君のためにこそ死ににいく」も、見方によっては決して悪い作品では無いのかもしれない。やれ、唯一の不孝は「無知」であり、自分なりに考えをもって行動するのであれば、それは全て国のためへと繋がってくるのである。そして将来、もし我々が“君のためにこそ死にに行”かなければならないような状況になったとしても、せめてその「君」というものを確立しておきたいというものではないか。それが、国家のためであっても、恋人や家族のためであっても、友のためであっても、はたまた愛するこの国のゲーム文化のためであったとしても構わない。多様な価値観を認めることこそが、この国の魅力なのだから。「仲間」の身の元で、死してなおも輝き続けるのである。
(2016年6月12日)
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