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管理人の日記
炊き込みごはんの味付けにはバターが良いのだろうけど、あんな高級調味料、買えないよ…
作れないんだな、それが |
少し前に、「ポテサラおじさん」なる言葉が流行った。内容は、「スーパーでポテトサラダを買おうと思っていた子連れの若い女性に、見ず知らずの高齢男性が、『母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ』とケチを付けた」というものである。もっとも、情報源はインターネット上の書き込みであるため、内容が誇張されているか、はたまた全くの嘘ということもありうるが、その可能性については、今回は除外していこう。
――まず、最大の問題なのであるが、実は「ポテトサラダ」という料理は、作るのがかなり面倒な部類に入る。実際に、私がレパートリーに入れている料理に、+比較用のインスタント食品も加えて、手間の順に10段階でリストアップしてみると、次のような感じとなる。
とまあ、こんな感じである。私が、ポテトサラダよりも面倒と認識しているレギュラー料理は、1つも無い。圧倒的な偏差値なのだ。
…やれ、“なぜポテトサラダがそこまでめんどくさいのか”ということに関する説明は、画像を挟んだ後編に回すとして、この時点で、“ポテサラおじさん”の言っている「ポテトサラダくらい」という表現は、もろくも崩れ去ってしまう。ポテトサラダ「くらい作ったらどうだ」どころか、むしろ、忙しい母親業務においては、ポテトサラダ「くらい買って済ませたらどうだ」が正しい表現なのだ。
――とはいえ、ここだけであれば、ポテサラ爺に同情できなくもない。ポテトサラダという料理は、一見すると、簡単に思えるのだ。じゃがいもを熱して潰し、肉と野菜をベースにした少量のトッピングを加え、マヨネーズ等で味を整える。所詮それだけである。だから、上のリストで言うと、料理と呼べるかどうかの「3.5」くらいのラインに位置しそうであるが、それが実際には、約3倍の詐称料理と化しているのだ。
ところで。反対に、“逆詐称”と言える料理の代表格は「親子丼」であり、もはやこれは、私の中では「玉ねぎを切るだけ」と認識されている。最近は、生物の玉ねぎが安いため、積極的に購入をして、余らせないよう包丁とまな板を取り出しているが、もし冷凍品で済ませるのであれば、恐らく、私にとっての親子丼は、皆さまでいう「電子レンジで温めるだけ」程度の認識となるだろう。
さて。話をポテサラおじさんに戻すと、そもそもの問題として、見ず知らずの人間が、他人の食生活にケチを付けるというのがおかしい。この理屈は、高齢男性と若い女性という構図で、ことさら強調されている感がある。
――だが、性別を逆転し、例えば私が、知らないおばさんから、「あらあら〜〜😅💦
まだまだ若い✨男の子✨なんだから、もっと不健康な生活しないと駄目よぉ〜?😊 投資💀なんてそこそこに、もっと🍕スーパーの惣菜🍱を買いまくりなさぁい‼👌」とか言われたら、「そうですね。ウフフフ(は?
痩せろ、デブ)」としか思わないであろう。私は、自分で選んで、この生活をやっているのだ。あなたの人生に私は干渉しないから、どうか放っておいてくれ。
その他の点、ポテサラ爺の問題として、「ポテトサラダくらい作れ」という表現から、「母親は苦労をして当然」と思っているということがある。時代を振り返ってみると、かつての日本は、今より遥かに給料が高く、「専業主婦」なる文明が存在したそうだ。男は外回りをしてお金を稼ぎ、そして女は家庭を守る。なるほど、私の理想とする男女の役割分担であり、そんな習慣が存在した日本は、神の国と表現しても良いだろう。そして、そのような時代であれば、夫や子供のために、女性が苦労をして料理を作る…というのも、大きくは間違っていないように思える。
――が、そんな神話の時代は終わりを告げ、残念ながら、今や共働きが一般的となってしまった。そうやって、悪い意味で男女平等となってしまった現代では、家事は女の仕事ではなく、男女で適切に分担すべきであると、私は思う。もし、ポテサラ爺と相対したのが、母親ではなく父親だったとしたら、「親なんだから、ポテトサラダくらい作ったらどうだ」と発言していたかというと…まあ、間違いなく言っていなかっただろう。こわ。私も、こういう偏見を持つことなく、ましてや見ず知らずの他人に偉そうに説教したりしないよう、気を付けていかなければならない。
「伏魔御廚子」の平易な日本語訳は「悪魔のキッチン」だと思っている |
さて。前置きが長くなったが、本日は、やり込みinFF式「ポテトサラダ」の、尋常ではないめんどくささを紹介していこうと思う。
とまあ、こんな感じだ。
…やれ、こういうものは、たいだい項目数が増えれば増えるほど面倒になるというのが恒例だ。上に書いた工程は、計10個であり、前に書いた親子丼回(【日記:2023/10/8】)の「6個」を凌駕している。しかも、親子丼は主力となりうる料理だが、ポテトサラダは、所詮「サラダ」枠、サイドアームでしかない。そのうえ、ポテトサラダでは、「じゃがいも:皮を剥きます」など、しれっと書いている1つ1つがいちいち重たく、かなりの労力が要求される。
――しかも、加えて厄介なのが、「潰すと見た目の体積が減る」という点だ。この法則により、だいたい、ポテトサラダは、当初に作ろうと思っていた分に対して、食べられる量が少なくなる。調理に苦戦するくせに、実際に容器へ盛ってみると、2食分にすらならないという場合がほとんどで、なかなか取り扱いが難しい。他の料理だと、みそ汁なんかは、予定よりも多くなる場合がほとんどであるし、仮に少なかった場合も、もやしや水を加えることで、簡単に増量ができる。だが、ポテトサラダの嵩増しは不可能であり、失敗してしまった場合にも、乏しい量を3等分して、なんとか耐えていくしかない。
そういうわけで。ポテトサラダは、「調理がめんどくさい」「量の調整が難しい」「所詮サラダ枠でメインディッシュに成り得ない」などと、厄介な性質を大量に持ち合わせており、私はあまり作りたくない料理である。あえて風味や食感を楽しみたいという場合も、これだけ面倒ならば、正直、店で買えば良いと思う。わざわざ頑張って作っている若い女性なんて見たら、心の中で、「ポテトサラダくらい買って済ませたらどうだ…」と言いたくなる。
…が、数少ないメリットを挙げてみると、それは、余ってしまったじゃがいもを、大量に消費できるという点である。自炊派閥の皆さまにはご理解いただけると思うが、じゃがいもというのは、「皮を剥くのが面倒」「茹ですぎると溶けてしまう」「適切な温め時間を計りづらい」などの理由で、とかく余らせやすい食材だ。だが、ポテトサラダは、そんなじゃがいもが主人公となれる数少ない料理であり、在庫を一気に減らせる。そして、調理の手間を度外視すれば、前述の通り、風味や食感は、他では再現できないものであり、楽しんで食べていける料理である。
――というわけで。私がポテトサラダを作るのは、もっぱら休日で、かつ、じゃがいもが余っていて、そのうえで、体力気力に余裕がある時に限っている。そんな日の昼下がりに、明日のお弁当を夢見て、「領域展開『
(2024年5月30日)
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