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管理人の日記
三重の実家に帰ってきました。ここからも地道に更新していきます!
今年のクソスマスも、無事に我々の大勝利で終わる結果となった。しかし、勝利の凱歌を上げている我々に、更なる試練が舞い込んできた。そう、初詣である。
・・・まず、「初詣」という漢字は「はつもうで」と読み、主に年の最初に神社へと参拝し、その年の幸福を祈ることを指している。「詣」という漢字は「もうでる」で動詞となって“神社などに参拝する”という意味を表すわけであって、「初詣」で文字通り「年の最初に神社などに参拝する」という意味を指している。この「初詣」は、関東なら明治神宮(東京)、その他には俺の地元である伊勢神宮(三重)などに訪れることが有名であり、その他にも様々な場所がそのランキングに名を連ねている。元々、「初詣」という文化自体に決まり切ったルールは無いそうで、参拝するのは神社・寺院のどちらでも良く、どのような施設をどれだけ訪れても良いそうだ。そのため、年の初めにそれぞれの信心を自由に表し、新しい一年の幸福を祈ることが、日本における「初詣」というものなのである。まったく、日本らしい文化であると言えよう。
――が。現在ではその初詣に、なんと自分の恋人と一緒に行くなどというふざけた行為が為されている(頭痛が痛い・・・)のである。これは許されざる反逆行為と言えよう。何せ、年の初めから神への信仰を表すのが「初詣」の姿なのであって、その機会を恋人と仲良くなるために利用するなどということは言語道断なのである(?)。恋人ではなく神への信仰を表すべきだ(?)。というか年の初めから晴れ着姿の彼女とイチャイチャするとか有り得ない!
氏ね!!!! 氏ね!!!!!!!! 氏ね!!!!!!!!!!!
では、このような「彼女と初詣に行く」などという意識の低い行為(?)に対して、我々はどのように対処をしていけば良いのであろうか?
・・・もちろんそれは、我々が「正しい『初詣』の形」を見せつけてやることに尽きるというものであろう。まず「初詣」というものは、そもそも年の初めにそれぞれの信心を表すというのが主なテーマであり、決まり切った形式が存在しないということは、既に上に述べた通りである。だがそんなものは関係無い。とりあえず、年の初めからそのようなリア充行為を見せつけるというものは、回りの人々に様々な負の感情を持たせることになり、つまるところの「公共の福祉」に反するという意味で憲法違反なのである。加えて、少し前までイエスの降誕を祝っていた連中が、今度は日本式の神様に詣でたところで、果たして誰がそんな人間を信頼できるというものであろうか。いや、そんな人間に自宅を任せるわけにはいかない。やはり、俺たちが守るしかないというものだな・・・。
――とまあ、そんな感じの様々な言い訳を並べたところで。結局のところ、「それぞれの形で信仰を表す」という初詣の定義から考えると、別に「恋人と共に初詣に行く」という文化も決して否定されるものではない。親しい人との幸せを神に祈るという姿も、立派な信仰の表れである。ひょっとしたら、「神様」でさえも、そのような姿勢を祝福しているかもしれない。が、それを認めてしまっては我々の存在意義が無くなるというものではないだろうか。NO
MORE リア充! その姿勢を、新しい2013年も続けていかなければならないのである。
ところで、である。
・・・本日、何度も書いた通り、初詣の定義とは「年の初めにそれぞれの信仰を表すこと」である。それならば、もし神社などへと参拝する以上に神の領域へと近づける行為があれば、それは我々のほうが「勝った」と言えるのではないだろうか? もちろん、それぞれの信仰心に優劣を付けるなど愚かなことであるが、しかし現在のように「初詣」という言葉の乱用が目立つ今こそ、その“原点”に立ち返って考えてみる必要がある。そして、その観点から言えば、神の世界へと進んでいく姿のほうが優れていることは言うまでも無いのである。
――と、いうわけで。神への信仰を表す姿は様々であるからこそ、「初詣」にも様々な姿が生まれてくる。だからこそ我々は、より「神の領域」に近づく姿を見せつけなければならない。そしてそれを模倣することが、全ての人々にとっての「救済」に成り得るのである。そういうわけで本日は、そんな「神の領域」へと詣でていく人々の姿を、皆さまにご覧いただくことにしよう・・・。
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(2012年12月30日)
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