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管理人の日記
卒業先の進路が無い
俺は幼い頃に、よく親から「早くゲームを“卒業”しなさい」と言われていた。それはつまり、ゲームとは「いつかやめるもの」であると捉えられていたのである。これは果たして、どういうことなのか?
・・・というのも、俺が子供だった1990年代というものは、スーパーファミコン・初代プレステなどが活躍していたテレビゲームの最盛期であり、「遊び」と言えば誰もかもがゲームのことを指していた。大人も子供もお姉さんも、皆が熱狂的なまでにテレビゲームをプレイしていて、例外は一人として存在しなかった。いま振り返ってみると考えられないことであるが、そういう時代が有ったのである。
――しかし、それだからこそ、我々の親である世代は、自分にとって理解できない「ゲーム」というものを敵視し、“卒業”という形でやめさせようとしたのである。やれ、そういう「自分に分からないもの」を排除しようという動きに関しては、俺も分からなくは無いというものだ。今だって、俺は「Facebook」「LINE」などという自分が使わないコミュニケーション手段を必死に否定しているし、「ワンチャン」などに代表される若者たちの流行り言葉を“馬鹿が使うもの”として心の中で卑下している。だから、我々の親たちが、全く未知数の「ゲーム」という文化を嫌ったとしても、別に不思議ではないというものである。
では、そういった立場から逃れて、客観的な目線で考えた場合、果たして「ゲーム」とは本当に“卒業”しなければならない文化と言えるのであろうか?
・・・もちろん、俺はそうは思わないのである。その理由は、「ゲーム」と言っても様々な種類が存在するため、それらを一概に非難することなどできるはずも無いからだ。無論、単に時間を浪費するだけの凡庸なゲームというものも存在するだろうが、例えば歴史をテーマとしたゲームであれば実際の歴史に興味を持つきっかけができるであろうし、そうでなくともゲームを介して他の人と知り合えるのならば、それはとても有意義なことである。むしろ“客観的”に見てみれば、「ゲーム」というものは、画面を通して大量の情報を取り込むことができ、自分の入力がすぐさま反映されるという最高峰の刺激的な遊戯である。だから、もし本当に斬新な物に触れあえ続けるような「ゲーム」が遊べるのであれば、それは読書・テレビなどの完全上位互換と言えるもので、これほどまでに有意義な趣味は他に無いとさえ言えるものであろう。
――特に、ゲームにおける「結果がすぐに帰ってくる」というのは、昨今の世間で極めて重用なことであと言える。俺は頭が悪くて世間を渡り歩ける能力など全く持ち合わせていないのだが、それでも「受験勉強」やそれに類するものだけが得意な理由は、ひとえに「自分が出した結果をすぐさま“答え合わせ”として確かめられるため」である。それで結果が合っていれば嬉しく思えるし、間違っていれば改善しようという意欲が生まれてくる。やれ、他の世界に関して言ってみても、食欲でも性欲でもないおよそ人間の欲求から掛け離れた仕事を実行させるためには、このような「報酬」の制度が必要不可欠である。そういうことを考えると、「ゲーム」というものは卒業しなければならないどころか、むしろ「入力
→ 即反映」という良いところを、他の文化も学ばなければならないくらいなのである。
まったく。そもそも、何らかの文化を「卒業」と称し、子供の趣味=“劣ったもの”として切り捨ててしまうのは、決して有ってはならないことである。例えば、子供たちに大人気の「カレーライス」は、味付けを辛めにすれば大人でも十分に楽しめる一品となっているが、それを「子供の食べ物wwww」として排除してしまえば、結局は大人たちも不都合な結果となってしまう。ゲームを「卒業」と廃してしまうのは、間違いなのだ。
・・・しかし。その「ゲーム」と呼ばれる文化も、今では様々な変貌を遂げているのである。例えば、ゲームの良い部分が「報奨制度」などとして企業経営に取り込まれている一方で、インターネットの課金制を“悪用”した新たなるコンテンツが登場し、早くも社会問題と化す様相を見せている。そして、幼い頃から「ゲーム」に親しんできた俺も、そういった新たな“ゲーム”に関しては全くの未知数であるため、結局はそれを敵視せざるを得なくなってしまう。自分の知らないものが社会に蔓延すると、それを異星人のように嫌って排除しようとする・・・歴史は、繰り返すということである。
――と、いうわけで。「ゲーム」という言葉は、それ自体が様々な意味を持っているだけに、文化としては賛否両論が出てきてしまうということが分かった。しかしそれは、他の「本」「テレビ」などでも同じことであり、逆に言えば「ゲーム」という文化がそれらに並ぶほどの市民権を得ているということでもある。そして、そのような一角となったゲームを「卒業」などとし、未成熟なものとして切り捨ててしまうことは、まったくもって誤った考え方なのである。そもそも我々には、他にも卒業しなければならないことが山ほどあるのではないだろうか・・・!?
(2012年11月11日)
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