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管理人の日記
2 0 代 中 盤
「言葉」とは、ひと言で人を勇気づける力を持つとされている。・・・本当に?
これは俺の意見であるが、人を勇気づけるのは「言葉」ではなく、「言葉を放った人」である。元々親しい人であればもちろんであるし、もし仮にその人が前まで知らなかった人だとしても、親身になって考えたうえで優しい言葉を掛けてくれれば、その声はそれこそ「人を勇気づける力」を持った言葉となるはずだ。逆に、傷付いている人をよく知ろうともせず、誰かの猿真似をして綺麗事を並べてみせることは、果たしてどれだけ虚しく響くことだろうか。しかも、そういう人間に限って、「人にアドバイスしてやってるんだ」などと勝手に良い気持ちになっているからタチが悪い。
・・・やれ、このインターネットでは、誰か言った「人を勇気づける言葉」がウンザリするほど使い回され、飽きたら捨てられていくという焼き畑農業がひたすら繰り返されている。例えば、「がんばろう日本」とか「絆」とかいう言葉は、そりゃあ確かに最初は素晴らしい言葉だったであろう。だが、それが流行し、口先だけの人間がありとあらゆる場面で吹いて回るようになった結果、もはやそれは苛立ちを加速させるだけの何の意味も無い言葉と化してしまった。それは、「言葉」自体に罪があるのではなく、「言葉を放った人」が、他人の気持ちなど何も考えていなかったからに他ならない。
――もちろんこれは、特定の人物や団体を非難しているというわけではなく、むしろ自分自身に向けた言葉である。そりゃあ俺は高い意志を持っているのかもしれないが、現時点では何もできない一人の人間でしかない。そんな俺が、偉そうに他人を思いやるなど、馬鹿らしいにも程があるというものだ。かつて俺は、自分のとても大切な人を「薄っぺらい言葉」によって深く傷付け、しかもそのことに後になってから気付くことしかできなかった。だからこれからは、できる限り行動をして、その結果の後に自分で考えて「言葉」を出すようにしたいと思っている。実態の伴わない「言葉の力」など、甘ったれたお坊ちゃまの自己満足でしかないのだから。
では逆に、人を「絶望」に導く言葉とは何なのか?これは実に簡単なもので、相手の気持ちを調べもせずに知ったような口を利けば良いだけである。そしてその内容が、その人にとって「とっくに分かっている苦しい現実」を再度突きつけるような内容になれば完璧だ。例えば、面接で落ちた人に対して「客観的に見て他の人と比べて魅力が無かったんだよ。おとなしく諦めろ」とか、死にたいと思っている人に対して「生きていれば良いことがある!今は辛くても頑張ろう!」だとか、原発事故の被害者に対して「もう風評被害は解決できないから諦めて他の場所に移れ」だとか・・・。
・・・まったく、これらの発言は書いているだけでイライラしてくるというものである。もし、現実世界でこんな発言する人間が居たら、あっという間にそいつは嫌われ者になって誰からも無視されると思うが、残念ながらこのインターネットでは、こんな人を人とも思わないような発言が堂々とまかり通っている。それは、心無い人間こそが、大声で不愉快を撒き散らしているからに他ならない。
――やれ、そういう時こそ誰かが情報をまとめて正しい方向に導かなければならないのだが、現状のインターネットは真逆であり、綺麗事が並べられるどころか、むしろ悪意のある人間が悪意を持って悪意を拡散させている。とにかく、どれだけ汚い手段を使ってでも他人を出し抜ければ良いという傾向が、このようなドス黒いインターネットの悪意を生んだのだ。そこでの「言葉の力」など、もはや「声が大きいだけの人間が偉そうな言葉を大量に吐いて他人を不愉快にさせる」という、反面教師的な意味しか持っていない。もう俺は、この「インターネット」という文化では、何もできることは無いと思っている。現実世界のほうが遙かに楽しい。
ということで、今日はそんな「人を絶望させる言葉」の例を、幾つか挙げてみたいと思う。
まず皆さまには、世の中にはこういう「絶望的な状況」で苦しんでいる人が居るのだと知って欲しい。そしてその後に、共に分かち合うような気持ちになって、解決方法を探ってほしいと思うのだ・・・。
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(2012年3月29日)
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