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管理人の日記
例えば私のやり込み日誌と動画も美少女女子中学生が作っていることにすれば価値が急上昇する
ねぇ、みんな…。老人になるって、悲しいことなの…… |
「ゴーストライター」という制度を、皆さまはご存じだろうか。有名な作家の“名義”だけを借りて、本当は別の人が文章を書くというものである。
…例えば、「有名サッカー選手が本を出版し、著者も選手名となっている」という場合において、実際には話を聞いた出版社の人間がほぼ全ての文章を書いているということは、よくあるのだそうだ。この場合、後者の「実際に書いた人間」が、“ゴーストライター”である。そこから転じて、このようなシステム自体を、文章だけに限らず、「ゴーストライター制」と呼んだりする。なお、日本語としては、「代作」という言葉があるそうだ。ちなみに、このスポーツ選手の代筆等をする場合、「編集:○○
○○」などという感じで、こっそりと本当の文章を書いた人の名前が載っていたりするらしい。
――更に。ゴーストライター制の負の側面として、例えば「有名な芸術家のネームバリューだけを借りて、無名の作家が作品を売りに出す」というパターンや、逆に「良い作品を作れなくなった有名作家が、新進気鋭の作家の作品を自分の物にしてしまう」などといった例も存在する。これらについては、完全に消費者に嘘をついているということになり、印象は良くない。後者の例は、ゲーム:「ペルソナ5」内のとある事件で登場していたりする。
しかし、私は、「このゴーストライターは“必要悪”なのではないか」と思い知らされたのだ。言わずと知れたピクセルリマスター(笑)で、である。
…さて、記事の性質上、個人の名称を、しかも名誉を傷付ける形で掲載しなければならないことを、最初にお詫びしておこう。「ピクセルリマスター」のドット絵は、「渋谷員子」という、原作のドット絵にも関わった人物が描いている。だが、率直に言って出来が悪い。別にピに限った話ではなく、「渋谷員子」がここ10年くらいに作ったドットを見ると、ことごとく壊滅している。例えば、旧スマホ版FF5,6の不評なドットも、「渋谷員子」が描いたということだ。わざわざ宣伝記事でまで「渋谷員子」の名前を出しているため、間違えようがない(【参考文献】)。
――しかしながら。この「渋谷員子」は、「ドットの匠」などと、過剰に持ち上げられている。FFシリーズ初期作のドットは、複数人で描いていたらしいが、その中で名前が通っているのが「渋谷員子」しか残っていないのであろう。実際、「渋谷員子」が打ったドットというだけで、一定の評価をするという人間も存在するため、広告塔としての存在価値はあると思われる。だが、被害者として同情をするつもりはない。「匠」どころか、現実は真逆で、この名前が出てくると必ず質の悪いドットになる。ピクセルリマスターも含めて、粗悪なドットでFFの質を下げ続けている、明らかな加害者である。もちろん、「ドットの匠!」などと持ち上げている側も共犯だ。いい加減、スーファミ時代の思い出から卒業して、目の前の現実を見ろ。
ただ、あえて擁護をするのなら、「渋谷員子」はFFシリーズ初期の立ち上げに関わった人物であり、昔は本当に優秀だった。ゲーム内のドット絵だけではなく、例えば、FF4や5のSFC時代のパッケージ等に使われたチビキャラの絵も、「渋谷員子」が書いていたようだ。
…それだけに、現在は才能が枯れてしまったというのは、残念なことであり、それを認めたくない気持ちも分かる。しかし、そろそろ、目を覚まさなければならない。そうでなければ、「旧スマホ版FF5,6」「ピクセルリマスター」に引き続き、更なる未来のドットFFも、延々と質の低いドットで占められ続ける。未来のプレイヤーたちに、「ドット=汚いグラフィック」と捉えられるようなことは、個人の名誉うんぬんよりも、遥かに残念で悲しいことなのだ。
パーツを倒すと無防備な本体を一定時間攻撃できる…なんかこんな敵を最近すごく見ている気が |
さて。私が何を言いたいのかというと、つまり、「渋谷員子」は名義だけを貸して、ゴーストライターにドットを打たせてほしいということである。
…やれ、現在の「渋谷員子」の作るドット絵は、質が悪く、明らかにもう回復不能である。しかしながら、その名義には、私には全く刺さらないのだが、広告塔としての価値があるようだ。だから、「渋谷員子」が作ったということにして、実際にはPSP版やHD-2Dのドッターに打たせる。そうすれば、ドット絵の質は上がるし、宣伝効果も得られ、「ドットの匠」という名誉も守られる。誰もが幸せになれたと思うのである。
――もちろん、それは消費者に嘘をついていることになり、好ましくは無いだろう。しかしながら、バレなければ誰も損はしない。世間には、「嘘も方便」という言葉がある。ひょっとすると、世の中の「ゴーストライター制」は、誰も悲しい思いをしなくていいように、始まっているのではないだろうか。
その辺りが、私が冒頭に書いた、「ゴーストライターは必要悪」という部分に繋がってくるのだ。正直、年齢を重ねれば、以前はできていた仕事が不可能になるというのは、誰にでも起こりうる話である。それでも、消費者の側から、「原作のスタッフ」「匠」などというヨイショは止まらず、その広告効果のため、「渋谷員子がドットを打っている」ということにしなければならない。それを折衷できるのが、ゴーストライターなのだ。
――しかしながら、実際には、ゴーストライター制が取られなかったことで、結果的に「原作のスタッフが打っているが、その質は、見る影も無いほどに劣化している。しかも、名前だけは広告として価値があるので、これからも質の低いドットで参加しつづける」という最悪のパターンとなってしまった。嘘をつくのは不誠実、そんなことは誰でも分かっている。だが、その結果がこれだ。果たして、これが皆の望んだ結果だったのか…?
嘘つくんならさあ。もう少し、皆が幸せになれるような内容にしてくれないかな |
しかしながら。今回のピに限って言えば、単にゴーストライター制を使ったところで、やっぱり駄目だったであろう。
…例えば、ピクセルリマスターの評価の低い要素として、ゲームの雰囲気に合っていないアレンジBGMもある。しかし、これについては、初期シリーズのBGMのほぼ全てを手掛けた「植松伸夫」は、監修という立場にとどまっており、要するに、名義貸しであって、ほとんど関わっていないと思われる。
――では、そのように、「植松伸夫」の名前を借りて、別のスタッフが作曲する…という「ゴーストライター制」を取って、ピクセルリマスターの音楽が良かったかと言うと、まあご覧の有様である。しかしながら、「コレジャナイ感」という名言を生み出した発表会(【ファミ通の記事】)によると、これでも「植松さんの思いを大切にする」「ファンの思い出も大切にする」と思っていたらしい。現実見ろ?
つまりである。「ゴーストライター制」は、確かに皆が傷付かなくて済む、優しい嘘となりうるものである。だが、“なりうる”というだけであって、結局のところ、その先の“ゴースト”が良い作品を作れなければ、ただ不誠実という部分だけが残ってしまうのだ。
…以上の理由により、どうあがいても、ピクセルリマスターが名作になる未来は無かったということになる。根本的に、ピクセルリマスター(笑)は、「低予算で6作まとめて作ってやろう」という目的の手抜きリメイクであり、スタッフも能力が低いうえ、誠実さに欠け、原作への愛も持ち得ていなかった。最初から、助からない運命だったのだ。さっさと忘れて、切り替えていかなければ。
(2022年2月20日)
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