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管理人の日記
読者「『来ないのだが?』と言われても…」
新年最初の風物詩と言えば、郵便局が主催する「年賀状」である。が、見事俺は、今年1通も年賀状が来なかったのである。祝! まあ、最近は「ハガキ」ではなく「電子メール」で済ませる人も居るから・・・と言いたいところであるが、もちろん俺は携帯電話の着信もゼロであった。よっしゃ!!
これで俺も二冠だね!!!
・・・しかしながら、俺はこの結果を受けて、少し安心しているのである。というのも俺は、普段やっていることには酷く熱中するが、新しいことを始めるのはおっくうだという一番仕事ができないタイプであり、「年賀状」を書くのもめんどくさいとしばしば感じていた。そもそも年賀状に書くネタが無い。そんなこんなで、特に一身上の都合が苦しい今年は、「年賀状が来ない」ということを、かえって嬉しく思っているのである(震え声)。
そんなこんなで。俺のように、「年賀状のやりとりをめんどくさく思っている人」というのは、決して少なくないだろう。しかしこれは、社会が「交流の機会」を与えてくれているのだと考えることはできないだろうか?
・・・というのも、そもそも郵便局が何を考えているのかはさておき、「年賀状」という機会を使えば、普段全く話すことのできない相手とも自然に交流を持つことができる。「交流の機会」というものは、言い換えれば「出会いの機会」でもある。とりわけ「年賀状」であれば、同じクラス・部活・部署などの相手に、仮に何の直接的な接点が無かったとしても、自然な形で「手紙」を送ることができる。これは、ポストという中継点を挟むハガキならではの利点かもしれないし、年の瀬が持たせる勢いから来るのかもしれないし、はたまた「年賀状」というものが日本文化に根差しているからかもしれない。
――そう考えてみると、「年賀状」という文化は、「第一報は必ず1月1日に届く」「一般に返信する義務がある」「手書きを自然に用いることができる」などの点で、なかなかに面白い特性を持っていることが分かる。やれ、ネット時代の現代では異質とも言えるこういうものを機会として誰かと交流を持ってみるというのも、良いものなのかもしれない。その使い方は、練りに練ったネタを元旦に披露して楽しんだり、好きな女の子にこっそりメッセージを送ってみたり、遠く離れてしまった相手に連絡を取ったりと、まさに無限大である。なるほど確かに、こう考えてみると、今でも「年賀状」というものは存在意義があると言えよう。
しっかしまあ、いわゆる「リア充」はそういうところから人々との交流を作っていくのであり、人間関係を通して様々な信頼を得ていくことになる。逆に、「年賀状を書くのがめんどくさい」などと捉えてしまう俺のような性格の人間が、現在の状況に陥っているのは、まったくもって至極当然とも言えるのだ。そこを冷静に分析してどうする・・・。
というわけで、「年賀状」という一つの文化を取ってみても、そこから様々な分析ができてしまうことが分かった。そう言われてみると確かに、皆さまは誰かが送ってきた年賀状からその人の性格を分析するだろうし、逆に相手方も、“あなたの年賀状”からその性格を読み取るであろう。「年賀状に何を書くか」、そもそも「年賀状を送るのか否か」というところから、それらが全て審査の過程となっているのである。・・・と、こう書くと、まったくあの就活みたいな感じで嫌になってしまうだろうが、実際そうなのだから仕方無い。世の中の人々は、そういう観点で「ヒューマンスキル(笑)」を捉えるということを、肝に銘じるべきである。
・・・そんなわけで、俺は今年は年賀状が1通も来なかったし、あまつさえその状況を「これでいいや」などと思ってしまっている俺にとって、「今後の飛躍の可能性」などは、まるで無いということが分かってしまった。今の気の抜けたコカコーラゼロのような状況である。それこそ、この「年賀状」のように、2013年も“何も来ない”日々が続くことであろう。やれ、余程の「リア充」でも無い限り、「自分から行動しなければ何も得られない」というものは、まったくもって道理のことである。この言葉を受けて、「ああ、じゃあ仕方無いな」と思うか、はたまた「よし、それなら今年は行動しまくろう!」と捉えるかは、その人次第というものである・・・。
――やれ、もしこの日記を見て、かつての俺に年賀状を送ってくれた人や、はたまた送ろうとしていた人が居て、悔いることがあったとしても、それは全く後悔に値しない。何故なら、結局は現状のようになっていることの責任は全て俺自身にあるからである。つまり、「年賀状が1通も来ないのだが?」という題名への答えは、「自分自身が怠慢だったから」ということに尽きるし、そもそも現状の俺は、それを「都合が良い」とさえ思っている。そんな俺が、皆さまに応えられる資格があるはずもないのである。しかし、もし今年の俺に少しでも希望を持つ権利があるのだとしたら、そんな状況から少しでも抜け出せるよう祈るのみである・・・。
(2013年1月2日)
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